箴言24.24-34
ズルくても、エロくても、妬んでいても、高ぶっていても、そのままで「いいよ、いいよ」と全肯定してほしいのが僕らです。また、相手をとりあえず肯定しておくと深く関わらないで済むし、ラクです。一見親切そうに見えますが、実はめんどくさくて愛さないで済む自己保身の方法です。
神様は違います。本気で愛し関わり、叱ってくださいます。「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられる」とあるように、その懲らしめは愛です。(ヘブル12.6)そして、その神様の御霊を与えられた人もまた、同じように愛する隣人を叱責します。その結果は祝福です。
(24節-26節)
悪者に向かって「あなたは正しい」と言う者を、人々はののしり、国々の民は呪う。
しかし、悪者を叱責する者たちは喜ばれ、すばらしい祝福が臨む。
率直な答えをする者は、その唇に口づけされる。
叱ったり間違いを指摘したりするのには2種類あって、1つは相手の祝福を願うものです。もう一つは単なる仕返しです。
復讐や制裁は神様の領域です。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」とあります。(ローマ12.9)聖書は何度も仕返しを禁止しています。
(29節)
「彼が私にしたように、私も彼にしよう。彼の行いに応じて、仕返しをしよう」と言ってはならない。
愛ゆえの叱責は相手を癒し、助けることです。大事なことは上から叱責するのでなく、自分も同じ罪人であることを認める上で、です。カウンセラーの赤坂泉先生(聖書宣教会)は「相手を尊敬せず愛していないことがわかったら相談に乗る時ではない」「まず相手への愛と尊敬が与えられているかどうかチェックすべし」と言ってました。
イエス様は罪人を救うために来られました。イエス様は罪人たちを愛し、愛ゆえに悔い改めるように言われます。ところが僕らは注意したり、真実を伝えて嫌われるよりも不正を放置したほうが楽なのです。愛することの怠け者です。
(30-34節)
私は怠け者の畑のそばを、良識のない者のぶどう畑のそばを通った。
見よ。茨が一面に生え、いらくさが地面をおおい、その石垣は壊れていた。
私はこれを見て心に留め、これを見て戒めを受けた。
少し眠り、少しまどろみ、少し腕を組んで横になる。
すると、付きまとう者のように貧しさが、武装した者のように乏しさがやって来る。
愛されたいけど、愛することは怠慢なのが人間です。というか、愛は僕らにはありません。愛は御霊によって与えられます。(ローマ5.5)僕らの中からは保身とか怠慢しか出てこないことをまずは認めて手放しましょう。自分を捨てるとイエス様の御霊を受け入れ安くなります。空っぽの器ほどよく用いられます。主から与えられる本当の愛を受け取って、愛ゆえに隣人を注意し、叱り、関わり、一緒に悔い改めましょう。隣人も僕も同じ罪人です。一緒に神様に赦される罪人仲間です。
叱責は謙遜さの表れです。それは神様からの愛です。単なる高ぶりや怒りとは違います。今日、主の愛が僕らを満たし、用いてくださいますように。ハレルヤ!
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