2023年12月13日水曜日

サーバントリーダーシップ論

 サーバントリーダーシップ論 (KBI豊田信行牧師のクラスの受講時のメモ)


●サーバントリーダーとは霊的な影響力を持つ人のこと


会社ならば、肩書きや立場で意見を通すことができるかもしれません。でも、教会では立場や肩書きでは限界があります。教会では、サーバントリーダーシップが要求されます、これは霊的な影響力のことです


●サーバントリーダーシップの誤解。


サーヴァントリーダーシップの目的は、あくまで人をリードすることです、単にしもべとして仕えることが目的ではありません、それは誤解です。


●最初に導くべきは自分自身


自分をリードできない人は他の人をリードすることはできません。自分をリードできる人が霊的な影響力持つことができます。「最初に導くべき人は、自分自身です」


人が動いてくれないという言葉を耳にしますが、それは自分の影響力が賞味期限を過ぎているということです。自分自身を導いていること自体が影響力を持つということです。サッカー選手でも、自分に対して能動的に影響を与え続ける現役選手こそが他の人に影響力を与えます。他の人に対してなぜあの人が動かないのかという問いをする前に、まず自分がどのように導かれているかを問う必要があります。

他の人の行いを考える前に、まず自分が何をすれば良いのか、神様が私に何をすることを願っておられるかを考えるのが正解です。


意図的に自分に影響を与える学習能力のことをセルフリーダーシップです。第3者からの影響を待っていても、他の人に期待してもダメです。自分が能動的に神様から影響を受けるためにしていることは何かを問う必要があります。


マタイ5章41節ではイエス様は1ミリオン行けという人に2ミリオン行きなさいと教えました。

ローマ帝国の支配時代ユダヤ人は1ミリオン行けというローマ帝国の命令に拒否することはできませんでした。無理やり動かされることは屈辱的です。ですが、イエス様は2ミリオン行きなさいと教えました。にミリオンいくと自分で決めることは屈辱ではなく自己決定であり、自分の人生に対して主体性を持つことです。


どんな劣悪な環境であっても、立場が奴隷であっても、主体性を奪われないようにとイエス様は教えておられます。イエス様ご自身が十字架にかかったのは自分の意思によります。いやいやながら、ではありません。もし自分で決めることを放棄し主体性的に生きることをやめた場合、モチベーションが枯渇します。たとえルールや義務であったとしても、自己決定することが大切です。主体性を奪われた時に人間は疲れ意欲を失います。


もう一ミリオン運びますね、と自分で決めて、相手に仕えることは勝利です。ただやらされているだけならば無気力に陥ります。実際に拷問の中に荷物を意味もなく重たい荷物を往復させるだけという拷問がありました。これは精神を崩壊させる拷問です。どんな仕事であっても、その中に自分の主体性、そして自己決定するということが人間として健全です。リーダーに要求されることはまず自分を導くことです。


リーダーとは状況の犠牲者にならないことが大切です。どんな悪条件であっても自分の願いと違っても自分で決断するべきです。いつもイエスさまが願っていることは何だろうと自分で考え、それを知ったなら自分で従う決断をすること、それが自分を導くリーダーだし、自分にしかできないことです。


●思い込みに挑戦することの大切さ


聖書はこの世と調子を合わせてはいけませんと教えます。原文では、枠にはめられてはいけないという意味があります。ローマ12章2節では、心を新たにすることで自分を変えて頂きなさい、と続きます。

私たちは自分が意識している以上に思い込みの枠にとらわれています。自分の考えの枠の中にいることが安全だと思っています。ところが神様は私たちが思う以上に「こうでなければ駄目」とは言っておられません。


リーダーが取り組むべきことは、自分の枠を外すことです。ワクに囚われてる人は影響力が少ないと言えます。反対に自由な人は影響力が多いです。頭が固くなってしまったリーダーほど厄介なものです。リーダーの考えが狭く、枠にとらわれていると、そこに所属する人達は息ができなくなっていきます。


自分の思い込みの枠から出ることに否定的であるかどうか、それは他の人から意見されたり質問された時に分かります。フィードバックに対してオープンであるかどうかで、それが分かります。もしそれに対してムカついていたら、既に自分の枠にとらわれるてると言えます。


聖書解釈や信仰のスタイルに対しても、自分の考えと違う意見に対してオープンであることが要求されます。もちろん自分の信念や確信は大切です。しかし考えにおいて自由になることは両立できます。こうあるべしと窮屈にしてしまっているならば一旦自分の考えを脇に置いてフラットに考えてみる必要があります。


人間が動かない理由は、信仰の問題ではなく、思い込みにおいてその人が固まっている場合が多いです。この枠からはみ出ても大丈夫と考えることは自由です。新しいことができない理由は、世の中とはこういうものだ、教会とはこういうものだと慣れた考えに固執してしまうからです。


リーダーとは、神様がどのように見ておられるかという神様の視点に、自分の思いを刷新し続ける人です。自分の持っていたイメージが変わると、感情も変わります。また他の人に対する評価やイメージも変わってきます。リーダーは神様の見方にいつも自分を変換していく必要があります。それを怠って固定化された味方にしてしまうと、感情も固定化されたものになってしまいます。


●心理的安全のある組織作り


言い換えると恐れのない組織です。教会のメンバーがが言いたいことを言えなくなるのは大問題です。以下は恐れの代表的なもの4つです。


1 無知だと思われること

 ピラミット型の組織だと、知らないとか、分からないことを今さら聞けない雰囲気があります。そこに安心感はありません


2 無能だと思われること

できませんと言いづらい雰囲気や恐れです


3 ネガティブだと思われること

ポジティブでなければならないという思い込みで、そのようなふりをしてしまうことがあります。ネガティブなままで受け入れられるのが、恐れのない組織です


4 邪魔だと思われること

このように思うと反対意見を出しづらく、黙ってしまうことがあります


心理的安全を失った組織の失敗例

スペースシャトルが離陸に失敗し、上空で爆発した事件がありました。その後の検証でひとりのエンジニアが熱でタイルが剥がれるのではないかということに気づいてはいましたが、発射の日程が決まっていて、そのようなネガティブな意見を言える雰囲気ではなかったということが後でわかっています


●心理的安全と信頼や期待がセットになって教会は成長する


教会は意図的に心理的安全を作っていく必要があります。ただ、心理的安全が高ければ良いというものでもありません、大事なことはリーダーが信徒や仲間に信頼し期待するということです。以下は心理的安全と期待と信頼の相関とその結果をまとめたものです


         期待と信頼が低い   期待と信頼が高い

心理的安全高い  ①安全快適      ④学習、業績共に成長

心理的安全低い  ②無気力       ③不安


①安全快適ゾーンはめちゃくちゃアットホームですが、教会は成長しません

できる分だけやったらそれでオッケーと言いがちな教会が多いです。とても優しくて、居心地が良いけれども、快適だけで終わってしまいます。


②はルールが厳しく、言いたいことは言えず、人々は無気力になりがちです

③は最悪で、本音を話すことはできない不安の中で高い基準が要求されている状態です。

④は人が一番成長します。心理的安全が守られた上で自由に発言でき、その上でリーダーからも期待され信頼されています。のびのびと成長する場合が多いです。


期待することは信じることです。それは重荷とはなりません。リーダーが神様が仰る教会の成長を信じているかどうかがポイントとなります。心理的な安全が保証され、しかもリーダーからも信頼されている人は無理することなく自由に持てる力を用いて動くことができます。

期待することは、このままではダメになるという不安が原因ではありません。イエス様が弟子たちに期待したのは、それは愛してるからです。弟子たちにとってはそれは苦しくないことです、むしろ彼らを生き生きとし能力を発揮させます


失敗しても気にすることがありません。ちょうど勉強が楽しくなる子どもと似ています。その人は自分で勉強するようになります。④にいる人は失敗することさえ、生き生きと用います。そこには恐れがなく、もう一度チャレンジする喜びがあり、失敗をさらけ出す自由があります。


イエス様の12弟子は心理的安全が高かったと言えます。何を言ってもいい雰囲気があり、弟子たちは未熟ですが、御国に着く時には私を高い位にしてください、ということを平気で言える雰囲気がありました。そしてまた、イエス様も未熟な弟子たちに福音をゆだねていきます。


教会のリーダーも、表面的な会話だけだと人を導くこともできません。心理的な安全を保証し、本音で会話する必要があります。ペテロはイエス様ともう一度お会いした時に私を愛しますかと問われた時に、アガペ、ではなくフィレオで答えるしかありませんでした。その様な、失敗した弱いペテロに、私の子羊を飼いなさいと委ねてくださっています。十字架の前には私は大丈夫と豪語していたペテロが、自分の弱さが明らかにされました。そのペテロを愛し、そのペテロに期待して、羊たちを任せ委ねていくのがイエス様です。


もしも教会のリーダーがすぐにさばいたり、すぐに相手の間違いを訂正するリーダーだと、それが正しかったとしても、相手は心を開かなくなります。牧師がすぐに、聖書のここにこのように書いています、とだけ伝えるならば、仲間たちは聖書に基づかないと発言してはならないと思ってしまいます。しかし、人間は頭で正解が分かっていても、心がついていかない、そのようなものです。聖書は真理ですが、その適用は私達は慎重にする必要があります。聖書には権威があります。それを私達はゆがめる必要はなく、それを死守する必要があります。しかし、適用のプロセスこそ私たちは愛を持って慎重にすべきです。


仲間が原野に逃げてしまうか、それとも主に向かっていくか、それは、心理的安全性の中にいられるかどうかがポイントです。人が主にあって成長する時には必ず心理的安全性が保証されています。そして神様からも期待され、愛され信頼されてると感じることです。


心理的安全性は意見の対立の時に明らかになります。意見の対立があった方が心理的安全性が保証されていることが明らかです、安心して発言している証となります。


以下は、心理的安全性のメリットです

1素直に話せる

2考えが明瞭になっていく

3意義のある対決ができる

4失意が緩和される

5イノベーションが促される

6目標に向かう障害が取り除かれる


安全で意義のある意見の対立がなければ、私たちの思いはひろがりません。もしも教会の役員会が、顔色をお互いに伺っていたり、強い人のイエスマンだけだと楽だけども、意見の広がりはありません。自分の思いを広げてもらうために、安全で意義のある対決を意図的にすることが必要です。


もしも教会のリーダーが、考えたくないと言っているならば、リーダーシップを放棄しています。安全が保証された意見の対決は、習慣になれば苦しいことではありません。もちろん意見の対立は、疲れます。しかし、自分の思いを超えた意外なところに、その会議は落ち着きます。その後味はスッキリしています。


チームが自由に対話することをすることは良いことしかありません。自分では考えたくないことをチームでは考えることができます。凝り固まってしまった組織の先はありません。教会のリーダーが、考えたくないと言い出したら、もうリーダーとしての賞味期限は終わっています。そして、その組織も終わっていきます。


牧師は不安からくる基準を人々に負わせるのではありません。人々を愛し信じて、そのままで受け入れ、かつ、イエス様が委ねてくださったように人々に期待してお任せしていくことです。人々は信じてもらっていることで能力を発揮します。牧師がイエスまの体である教会の全てを受け入れ、信じて愛して委ねていくかにかかっています。親は子供をそのままで受け入れ、かつ、信じ期待することです。それは重荷とはなりません。


信頼して期待することは、実績で評価することとは違います。それは会社の評価基準とは違います。イエス様の弟子たちの実績はほとんどありませんけれども、イエス様は彼らに多くのことを預けてくださいました。み言葉を信じることは、イエス様が約束してくださった未来を信じることです。それはイエス様が与えてくださった教会の仲間を信じることです。そして愛することです。


イエス様はあなたが信じた通りになるようにと教えます。そもそも教会のリーダーが神様の言葉を信じていないのなら、何も始まりません、そしてイエス様の教会を、その成長を信じていないのなら、何も始まりません。見ないでも信じることがイエス様の期待であり、イエス様の願いです。それは重荷とはなりません。


リードすることは、相手の将来性を信じることです。神様がその相手をどのように作り替えてくださるか、その将来性を信じることです。


●豊田先生の証です

私は小さい時に父を亡くしました。母は心配してくれて、いつもあなた大丈夫?とよく言ってくれました。私は母からの愛を感じていました。

私は人並みに能力はあるはずなのですが、どうも自分に自信がありません。どうしてだろうと思っていました。よく考えると大丈夫?と心配されることは多いけども、あなたは大丈夫、あなたはOKと言われたことがあまりありませんでした。


ある時、アメリカの有名な牧師さんが、自分と会ってくれることになりました。彼は人気の牧師でなかなか彼と時間を取ることができないような有名人です。彼は大きな集会で私を見るなり、神様があなたのために時間を使いなさいとおっしゃってると言いました。私は社交辞令だと思ってあまり気にしていませんでした。ところがその後、彼は何度も日本に来てくれました。その度に彼と時間を過ごし、その度に何度も何度もあなたはそれでOK、you are OKと言います。


私は自分が100人も牧会することができると思ってませんでした。でも本当にすることになりました。そのうち、もう一つ160人の教会を兼任することになりました。自分にはできるはずがないと思っていました。けれども、その牧師はあなたはできる、you are OKと言い続けました.


将来性を信じることには根拠は要りません。数字的な証拠もいりません。信じることは神様がそうおっしゃってることをそのまま受け入れることです。教会のリーダーの責任は、神様がおっしゃる未来をそのまま信じることです。もちろん人間なので不安はありますけれども、信じた通りになります。

もちろん戦いはあるし、自分の描いていた未来とは違ってきます。もちろん失敗もします。けれども、心理的安全がある人は失敗を歓迎し受け入れます。


●自己肯定感のワナ


自己肯定感とはいいものでしょうか、それとも悪いものでしょうか。一般的には良いものと思われています。でも、正確に言うと、自分で自分を肯定するのではなく、神様が肯定してくださるというのが良いものです。自己肯定感には罠があります。自分で自分を肯定する時、神様がイエスと言ってくれているという誤解です。つまり、自己批判をやめてしまうという罠です。その時にその人は成長しなくなります。


イエス様は何でも肯定してくださるのではなく、ちゃんと厳しく批判してくださっています。なんて小さな信仰なんだと嘆いて下さっています。健全な、イエス様にある自己批判と友達になることが成長のカギです。自己肯定感が良いものだと思いすぎて、それに深入りしすぎると成長が止まってしまいます。イエス様は私たちを裁くことはしませんが、批判してくださいます。また厳しく訓練してくださいます。


自尊心は守るべきです。けれども、自分のやったことが偉いとか立派だとか、そのようなものを守ろうとすることは全く違います。多くの人は後者を守ろうとしてしまいます。


交わりの中でも安心感のある建設的な批判は大切です、もちろん悪意の批判はすべきではありません。

年齢とともに、突っ込んでくれる人は減ってきます。現状の自分をそのまま肯定してはいけません。神様がおっしゃる可能性を信じ、成長していくことを信じ、今はそこに達していないことを認めていくことが健全です。


等身大の私を認め、見極めることが大切です。そして神様にさらに変えていただくことを信じていくのが信仰です。変えてもらえると信じるから、私たちは自己批判をし、互いに批判することができます、しかも、心理的安全が保証された中で、です。


失敗した時に人のせいにしさらには神様のせいにしてしまうのは最初の罪の時から人間のしみついたパターンです。イエス様はまず自分の目から塵を取り除きなさいとおっしゃいます。





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