僕らが信じているのは「福音」です。「福音」とは「良い知らせ」です。簡単にまとめると以下の3つです。
①イエス様が身代わりに死んでくださって僕らが無罪だと見なされていること (義認)
②無罪になっただけでなく、聖霊によってイエス様に似せられ変えられて行くこと (聖化)
③将来は完全にイエス様に似た栄光の人に変えられること (栄化)
この福音を僕らは聞き続ける必要があります。なぜなら、僕らは福音よりも目に見える人間の行いを重んじてしまいやすいからです。「私はこうした、私はこう言った」など、神様よりも「私が」中心になることを「自分自身の義」と言います。イスラエル人たちは、福音を聞いても信じないで、行いを重視して「自分自身の義」を立てようとしました。
(ローマ10.3)
彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。
聖書が伝えているのは「福音」です。福音とはイエス様が与えてくださるプレゼントです。これは罪人にとって希望です。行いも悪く、性格も悪く、状況も悪くて希望のない人なのに、神様には見捨てられていない、という福音です。100パーセント神様から与えられる恵みです。これは「良い知らせ」です。(15節)
(10:11)
聖書はこう言っています。「彼(イエス様)に信頼する者は、失望させられることがない。」
世界中の人がイエス様がくださる赦しのメッセージによって救われます。ユダヤ人と異邦人の区別はありません。イエス様を信頼して呼び求める人に与えられる共通の恵みです。神様の救いの方法には人種差別はありません。
(10:12)
ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
ただ、この情報を聞いたことがない人は信じることができません。なので、誰かがこの福音を伝える必要があります。神様はそのためにわざわざ人を用いられます。
(10.14-15)
しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
神様に遣わされる→伝える→聞いた人が信じる→その人は主を求める、という順番です。そして、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。(13)
僕らが伝えているのは本当に「福音」「良い知らせ」なのか、注意する必要があります。教会がいつのまにか「ああしなければならない」「こうしなければ救われない」と教えるなら「悪い知らせ」です。それは大間違いです。それでも僕ら人間は根深く「自分自身の義」が好きなようです。それは「私たちはこうした、ああした、もっとこうせねば」という話です。それは福音ではありません。
(17節)
そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
信仰とは、「キリストについてのみことば」を聞くことです。それは、キリストが私たちの身代わりになって、十字架で捨てられ、私たちは赦された、という福音です。「私はよくやってる」という話とは全然違います。イスラエル人たちにとってこの話は受け入れられませんでした。キリストは十字架で処刑された惨めな人です。人々からのけものにされ、唾をかけられて死んだ人の話が福音とは思えないし、そんな話は信じない人が今も多数派です。
(16節)
しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。
自分が頑張ったとか、自分は神様の律法を守ってる、というタイプの人は、キリストが殺されて僕らが赦された、という福音を信じません。何千年も律法を守ってきたプライドがあるイスラエル人にとっては、良い行いも努力もしないくせにイエス様を信じて赦されている、と単純に信じる人は愚かな人、無知な人に見えます。そして、そのように神様に赦され受け入れられている人たちを妬み、憎しみます。単純に福音を信じて喜んでいる異邦人(イスラエル人じゃない人たち)は彼らから見ると無知な、愚かな人たちです。それでも、そのような異邦人から先に福音を信じることこそが神様のご計画でした。
(19節)
でも、私はこう言いましょう。「はたしてイスラエルは知らなかったのでしょうか。」まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者のことで、あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる。」
僕らはこの福音を全世界に伝える役目を預かっています。全ての人が神様に遣わされています。家庭に遣わされ、職場に、友達に遣わされています。僕らはすでにイエス様に繋がり、イエス様の体の器官とされました。
「伝える必要があります」とか「伝えましょう」というメッセージを聞くと、「私には無理」と思う人や「私は伝えていない」という罪悪感を持つ人がいるようです。でも、「私は」伝えているとか「私は」伝えていないと思う人は、やっぱり自分の行いを中心に考えてしまう人です。伝えることも、僕らの行いではなく、神様の力であり、恵みです。
伝えるために遣わしてくださるのは、僕らの頑張りではなく、イエス様です。イエス様に全ての力があります。僕らにはありません。
そして、イエス様に遣わされなければ、自力です。そんなのは無理です。
(15節)
遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。
確かに僕らが遣わされ、僕らが福音を伝えるのですが、それは最初から最後までキリストによります。何もできない弱い僕らが聖霊によって証するように変えられます。
(使徒 1:8)
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
僕らは福音を今日も聞き続ける必要があります。
(11節)
聖書はこう言っています。「彼(イエス様)に信頼する者は、失望させられることがない。」
(17節)
そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
すぐに僕らは私はできる、とか、私はできない、と考えます。でも、キリストについてのみ言葉を聞いている人には信仰が与えられます。信仰とは信頼です。自分の力に関係なく、イエス様に信頼し、イエス様に用いていただくだけです。
表面的にたくさん奉仕をしていても、福音のみことばを聞いていなければ、つまずいてしまいます。福音の言葉を聞いていなければ、神様に信頼することがなくなって、自力で頑張るようになってしまいます。
あるところに姉妹が居ました。お姉さんのマルタは頑張ってイエス様と弟子たちをもてなそうと動き回っていました。が、妹のマリヤはただイエス様の足元に座ってイエス様の福音の言葉を聞いていました。まさに信仰は聞くことによります。福音を聞くことのない奉仕は疲れます。お姉さんのマルタはイライラが募ってついにイエス様に文句を言いだしました。
(ルカ10.40-42)
ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
福音を今日も聞くことこそ一番大事なことです。みことばを聞きましょう。聞くことによって全ては始まります。それ抜きでは何も始まりません。
0 件のコメント:
コメントを投稿