聖書は人間の恥ずかしい姿をハッキリ書いています。ダビデのような信仰者も恥ずかしい罪をしました。神様を愛し人を愛したダビデでさえ女性の裸をのぞき、自分の権力を使ってその人妻と寝て妊娠させ、さらには、それを隠すために工作し、最後は夫を殺しました。聖書はそれをハッキリと書き、今も僕らに警告しています。
(2-5節)
ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。ダビデは人をやって、その女について調べたところ、「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか。」との報告を受けた。ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。――その女は月のものの汚れをきよめていた。――それから女は自分の家へ帰った。女はみごもったので、ダビデに人をやって、告げて言った。「私はみごもりました。」
ダビデでさえ失敗し罪に堕ちて行くなら、凡人の僕らはなおさら失敗します。まず、ダビデは屋上から他人の妻の入浴を見ています。すぐに止めればよかったのに、彼は見続けることを楽しみます。さらに、欲は欲を産み、彼はブレーキが効かなくなります。王様としての権力を使ってその女性を自宅に呼んで寝ます。そして、妊娠させます。
ダビデは祈りの人のはずだし、神様だけを信頼する人であり、賛美の人であり、謙遜な人のはずでした。しかもこの時、戦時中です。今までのダビデなら必死に国の守りを祈っていた時期です。ところが彼は「夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり」ました。そこにはなんの緊張感もなく、神様への祈りも感謝も信頼もありません。彼は裸を見、自分から誘惑を楽しみます。小さな罪はどんどん大きくなって行きます。大きくなるパン種のようです。当時のイスラエルの律法によると人妻と寝る人は死刑です。
(レビ 20:10)
人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。
ダビデは律法を知っていました。自分の妻以外の人と寝ることは他人の妻を盗むことです。「姦淫してはならない。盗んではならない。」と聖書は教えます。(申命 5:18-19) しかし、彼は他人の妻を奪って楽しむことを選びました。すでにダビデは隣人を尊敬することも愛することもやめています。他人の妻を盗むことは、自分の家族も相手の家族も破壊することです。
ダビデは他人の妻を盗んで楽しみました。しかも、それをごまかすために、戦地で戦っていた夫ウリヤを呼び寄せ、家に帰して妻と寝させようとします。妊娠した子が姦淫の子ではなく、夫の子であるように偽装するためでした。
(6-8節)
ダビデはヨアブのところに人をやって、「ヘテ人ウリヤを私のところに送れ。」と言わせた。それでヨアブはウリヤをダビデのところに送った。ウリヤが彼のところにはいって来ると、ダビデは、ヨアブは無事でいるか、兵士たちも変わりないか、戦いもうまくいっているか、と尋ねた。それからダビデはウリヤに言った。「家に帰って、あなたの足を洗いなさい。」ウリヤが王宮から出て行くと、王からの贈り物が彼のあとに続いた。
ウリヤこそまっすぐに神様を愛し、人を愛した人です。彼は家には帰らず、戦地と同じように野営しました。ウリヤは神様と人を愛する選択をし、それを態度で表しました。
(11節)
ウリヤはダビデに言った。「神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか。あなたの前に、あなたのたましいの前に誓います。私は決してそのようなことをいたしません。」
ウリヤの態度は本来ダビデが心がけるべきことでした。神と人を愛するウリヤとは真逆に、ダビデはますます神と人に対して残酷になって行きます。ウリヤを殺すために部下のヨアブにウリヤをわざと戦死させるようにと命令書を書きます。
(14-15節)
朝になって、ダビデはヨアブに手紙を書き、ウリヤに持たせた。その手紙にはこう書かれてあった。「ウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」
ダビデはこの時殺人の命令をウリヤ自身に届けさせるほど残酷です。姦淫は殺人とセットです。ダビデの関心は自分の欲望とメンツだけです。そのために人が死んで行くことをなんとも思いません。ウリヤは殺されました。姦淫と殺人はセットです。「殺してはならない。姦淫してはならない。」とセットで教えられています。(申命記5.17-18)
今も、姦淫の結果は弱い人、邪魔な人から順番に殺されます。多くの場合、胎児が罪の結果として殺されていきます。姦淫は人を人と思わない傲慢です。姦淫は殺人とセットです。
これが現実です。どんな人にも罪があります。でも罪や誘惑を育て守っても何も良いことがありません。罪は小さいうちに認めて告白して捨てるのが一番です。罪を育てるか、捨てるかは僕らの選択です。どんな人も葛藤はあります。その葛藤を神様にも信頼できる友人にも言って助けを求めましょう。神様は助けてくださいます。
誘惑になるモノや人がいるなら、どんなものでも捨てましょう。誘惑を育てても何も良いことがありません。
(マタイ 5:28-29)
しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。
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