民数記3.6-13 礼拝メッセージ 「あなたは神様のもの」
●神様の子どもたち
昨年はたくさんの赤ちゃんが与えられて感謝でした。子どもたちは宝です。言葉にできない喜びがあります。神様に感謝します。
13節は「長子はすべて、わたしのものだからである。」と言っています。
赤ちゃんは全部嬉しいんだけど、特に1番最初の子は感動があります。親にとっては自分の中から子どもが生まれるなんて全く体験したことないことです。次の命が生まれる神秘的な神様の御業をリアルに見せてくれる体験です。その一番最初の子のことを「長子」と言います。
最初の感動、最初の喜びです。家族にとって驚きと感動の存在です。2番目3番目になると、親もちょっと慣れてきます。命は全部神様のものだけど、特に最初の感動、最初の喜び、最初の宝、最初の恵みである「長子」はすべて、神様のものです。
作物の場合は「初穂」と言います。同じ意味です。これらはすべて 「全体を代表する最初のもの」 です。
収穫の場合は、それらが神様からのものである表明として、収穫の最初である初穂を神様に捧げなさい、という教えは聖書に繰り返されています。
"あなたの土地の初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。"
出エジプト記 23章19節
"あなたの財産で主をあがめよ。あなたのすべての収穫の初物で。
そうすれば、あなたの倉は豊かさで満たされ、あなたの石がめは新しいぶどう酒であふれる。"
箴言 3章9~10節
最初の実りを神様に献げる行為は「良いものは全部神様からのものです」という表明です。そして、「これからも神様は良いものを与えてくださると信じます」という信仰の表明です。
だから、「余ったもの」とか「いらないもの」を捧げるのはふさわしくないし、その人は、神様がこれからも良いものを豊かに与えてくださることを信用してない人だと思います。
先ほどの箴言は「そうすれば、あなたの倉は豊かさで満たされ、あなたの石がめは新しいぶどう酒であふれる。」とあります。神様の言葉は実現します。
信じて神様にささげる人は幸いです。祝福されます。聖書がそう言っているからです。
同じように、最初に生まれた子を神様にゆだねて献げることは、この後の弟たち妹たちも全部神様が豊かに祝福してくださる信仰の表現です。神様のもの、というのを聖書の言葉では「聖なるもの」「聖別されたもの」と言います。
"イスラエルのうちのすべての長子をわたしのものとして聖別した。彼らはわたしのものである。わたしは主である。」"
民数記 3章13節
長子は聖別された神様のものです。
神様にも聖別された長子がいます。それはイエス様です。イエス様は聖別された神様の長子です。イエス様がバプテスマを受けた時、天から声がしました。
"「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」"
マタイの福音書 3章17節
長子であるイエス様は神様に聖別されていて、しかも、神様が愛し喜んでいる存在です。聖別されることは愛され喜ばれることでもあります。
子育て大変だと思います。大事なことは「うちの子」「私の子」ではなく、「神様から預かっている、愛さている神様の子」と思って大事にすることです。神様の宝が、神様の命がわが家に預けられています。教会に預けられています。
イエス様を信じた人は大人も「神さまの子ども」です。
"この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。"
ヨハネの福音書 1章12~13節
隣のクリスチャンを見てください。神様の子、神様に聖別された子です。大事な人です。神様が「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」とおっしゃる子です。
"父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。"
ヨハネの福音書 15章9節
神様からの喜びと愛は僕らにも注がれています。
僕らは簡単に人をめんどくさい、と思い、見下し、邪魔にしますが、隣のクリスチャンを大事にすることは神様の宝を愛することです。
また、自分のことが嫌いな人が多い時代だと思います。
※みなさんに質問です。
自分のことを好きですか?嫌いですか?
誰が何と言おうと、自分で自分を嫌っても、神様は「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」とおっしゃっています。
人の愛はすぐ消えていきます。他人に期待してガッカリすることはあると思います。自分にがっかりすることもあると思います。
神様の愛だけは自信を持っていい愛です。消えることはありません。
神様は皆さんのことを宝の子、喜びの子、愛する子、と言っておられます。それを信じるのが信仰です。信じた通りになります。
愛は神様から出ます。御霊が愛を与えてくださいます。自分からは出てきません。愛せない、と思うのは簡単です。肉の思いです。愛は僕らからは出てきません。愛は神様から与えられる御霊の賜物です。
子どもたちは神の子です。教会の仲間兄弟姉妹もまた、神の子です。そして、あなたも神様の子、喜びの子です。欠点だらけの罪人です。それでもイエス様に赦され、きよめられ続けています。大事な子、宝の子です。
だから自分も、子どもたちも、隣人も、自分の思い通りにしようとしないで、所有権を神様にお返ししましょう。
一つ目のポイントは、神様の子、神様のもの、という話でした。
●殺されるはずだった子
二つ目のポイントは「殺されるはずだった子」ということです。
"長子はすべて、わたしのものだからである。エジプトの地でわたしがすべての長子を打った日に、わたしは、人から家畜に至るまで、イスラエルのうちのすべての長子をわたしのものとして聖別した。彼らはわたしのものである。わたしは主である。」"
民数記 3章13節
出エジプトの時に、神様を神様とせず、自分を神とし、自分を王とし、神の民を虐待し続けた全世帯に神様の怒りと裁きが下されました。何度もモーセを通して警告したにもかかわらず、心を頑なにし続けるエジプトの王ファラオと民に対して神様は最後の裁きを下しました。
神様が全世帯の長子を殺しました。
「エジプトの地でわたしがすべての長子を打った」とあります。
神様の怒りと裁きは、家庭の一番の喜びである長子を全部殺すことでした。これが神様の怒りでした。
"その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての長子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。わたしは主である。
出エジプト記 12章12節
全世帯の長子が神様の怒りで殺されていきます。エジプト中に叫びが起こりました。
"その夜、ファラオは彼の全家臣、またエジプト人すべてとともに起き上がった。そして、エジプトには激しく泣き叫ぶ声が起こった。それは死者のいない家がなかったからである。"
出エジプト記 12章30節
その時に殺されなかった子どもたちがいました。それはどんな家でしょう?
それは、身代わりに子羊を殺してその血を玄関の鴨居と門柱に塗った家です。
(出エジプト12章13節)
その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。
神様がおっしゃった、唯一の救いの方法は、子羊を用意し、その夜、身代わりに家族で子羊を殺し、門柱と鴨居に血を塗った家です。
神様が見たのはその子がいい子だったからどうかではありませんでした。罪のない子はいません。どの人にも罪があります。どの家にも罪があります。聖書はそう言っています。
神様が見たのは何でしょう?出エジプト12章13節「わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。」
神様の怒りと裁きは全員同じです。えこひいきはありません。ユダヤ人にも、ギリシャ人も同じです。
ただ救われる方法は、子どもが殺されなかった理由は、一つだけです。神様が子羊の血を見たから、身代わりの血を見たから、です。だから、この家は殺さない。それだけです。
「わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。」とある通り、神様がおっしゃった通りに、子羊を殺した家の子は殺されずにすみました。それをしなかった家の子は全世帯の長子が殺されました。
この民数記の時代、まだイスラエル人たちにとっては生々しい記憶であり、そのことがリアルに語り継がれていた時代だと思います。
子羊の血によって殺されないことは、僕らにも適用できます。
私が神様に殺されず裁かれない理由は一つです。神様は僕らの行いではなくて、イエス・キリストの十字架の死、十字架で流された血を見て怒りを過ごされるからです。
イスラエルでは、毎年、この恵めを忘れないように、過越の祭りお祝いします。私たちが滅ぼされなかったのは、この子羊が身代わりに殺されたからだ。毎年お父さんが身代わりの子羊の話、救われた話、エジプト中に神様の裁きが下された話を子どもたちにして、パンを裂き、肉を食べます。
同じように、イエス様も弟子たちとの過越の食事をされ、お父さんが子どもたちに話すように、神様の裁きと、イエス様が殺された子羊となって救われることを話されました。新約聖書は次のように書いています。
私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。
コリント人への手紙 第一 5章7節
パンを裂き、イエス様が身代わりに殺された羊となってくださったことを覚えて、思い出してこれを行いなさい、とイエス様は言われます。今日はこの後、イエス様を覚えて、一緒にパンを裂いて食べ、杯を飲みます。
私たちが滅ぼされなかったのは、イエス・キリストの十字架の血によります。イエス様がが鞭で撃たれ、血を流し、十字架に磔になり、槍で刺されて血を流されました。イエス様が身代わりになってくださったことで、僕らは神様の裁きにあわず、殺されることなく、生かされています。
死ぬはずのものが生かされています。
死ぬはずのものが、神様によって赦され、聖別され、神様のものとなりました。
今も、民数記の時代と同じように神様は僕らを殺さず、裁きに合わせず、私のものだ、聖別した、と言われます。
"長子はすべて、わたしのものだからである。エジプトの地でわたしがすべての長子を打った日に、わたしは、人から家畜に至るまで、イスラエルのうちのすべての長子をわたしのものとして聖別した。彼らはわたしのものである。わたしは主である。」"
民数記 3章13節
この時代のイスラエルでは毎年、「殺されるはずだったウチの子が生きている」という感動がありました。あの羊が殺されて、神様がウチの子を生かしてくださったと言う感動です。
僕らも同じです。殺されておかしくなかった罪ある私が生きています。罪が赦され、きよめられています。聖なるものと呼ばれています。
だから、神様に感謝をささげ、神様のものとして自分の人生を神様にささげます。
神様の子どもたちは、神様のものです。聖別されたものです。
だから自分も、自分の子どもたちも、自分の意のままにしようとか、自分の所有物のようにしようとか、思い通りに育ってほしいとか、そういうことを手放して神様におゆだねするのです。神様がどのようにでも育て用いてください、と言ってささげます。子は神様のものです。
そして、私自身の人生も神様のものです。みなさんの人生も神様のものです。
人生の全時間は神様のものです。
全ての奉仕や賛美や礼拝の動機は感謝です。私たちは殺されなかった、救われたという感謝です。本当は殺されてもおかしくなかった罪人だったのに、という感動です。
※KBIの、そしてアンテオケ宣教会の大田裕作先生と初めてお会いした日のことを思い出します。
当時僕は、どうやって若者たちを訓練したらいいのか、フルタイムで主にささげたいという人たちの生活はどうしたらいいのか、宣教師を海外に送るなんて、どうすればいいのか?などなど、聞きたいことが山ほどありました。初めて先生と対面でお会いした日、僕は次々と質問しました。
その時の大田先生の答えは強烈だったし明確でした。
要約するとこういう話です。「お金の問題は中心ではない。一番の中心は十字架の福音に感動です。イエス様の十字架に感動してるから人生をささげる、これが全てです。生活費のサポートはあってもなくても、十字架の福音に感動している人は続けられます。そうじゃない人はいくらサポートを整えても続きません。」その通り、と思いました。
イエス様の十字架の犠牲で僕らは救われました。その感動があるから、私たちは礼拝を捧げ、良い物を捧げます。フルタイムで捧げます。私が殺されなかったのは、赦されたのは、イエス様が代わりに裁かれ、神の怒りをその身に受けてくださったからです。
あの十字架を見て知るのです。私は裁きが過ぎ越された。私は赦された。私は生かされた、と。この感動があるからこそ、僕らは自分自身を神にささげる者となります。
イエス様が全てを捨てて、低くなってくださいました。十字架の死にも従われました。だから僕らも全てを捨てて、自分を低くして主に従おう、という十字架への感動が動機です。
●代わりに奉仕者とされたレビ族
さてイスラエルの長子をささげる話はこれで終わりません。
神様は全世帯の長子の代わりにレビ族を、フルタイムで礼拝をささげる奉仕者として用いる、とおっしゃいます。
「見よ。わたしは、イスラエルの子らのうちで最初に胎を開いたすべての長子の代わりに、イスラエルの子らの中からレビ人を取ることにした。レビ人はわたしのものとなる。」
民数記 3章12節
長子は神様のもの→(代わりに)レビ人は神様のもの、です。
実際にどんな奉仕をするのか、6節-9節に書かれています。
"「レビ部族を進み出させ、彼らを祭司アロンに付き添わせて、仕えさせよ。
彼らは会見の天幕の前で、アロンに関わる任務と全会衆に関わる任務に当たり、幕屋の奉仕をしなければならない。
彼らは会見の天幕のすべての用具を守り、またイスラエルの子らに関わる任務に当たり、幕屋の奉仕をしなければならない。
あなたは、レビ人をアロンとその子らに付けなさい。彼らはイスラエルの子らの中から、正式にアロンに付けられた者たちである。"
民数記 3章6~9節
レビ人は土地を持たず、農業もぜずに、生活の全てを神様にささげています。
レビ人の生き方は「私たちは土地に頼るのでなく、収穫に頼るのでなく、全部を主に頼って生きる」というものです。
あのレビ族は奉仕者で、私たちは一般人、ということではありません。フルタイムのレビ族は私たちの代わりです。
"「見よ。わたしは、イスラエルの子らのうちで最初に胎を開いたすべての長子の代わりに、イスラエルの子らの中からレビ人を取ることにした。レビ人はわたしのものとなる。"
民数記 3章12節
レビ族が専門職として神様に近く奉仕したことは、全世帯の長子の代行です。私たち自身の代わりだと言うことです。
●まとめと私たちへの適用
1. 神様の裁きがあり、全世帯の長子が殺された
2 子羊の血によって長子が救われ、神様のものとなった。
3. レビ人が長子の代わりに選ばれた。
新約聖書はさらに、レビ人だけでなく、救われた私たち全員を聖なる祭司と呼んでいます。イエス様によって、誰もが神様に近づくことができる人となりました。僕ら全員が神様に捧げられた「主のもの」です。
"あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。"
ローマ人への手紙 12章1節
全ての人が聖なる、生きた捧げものです。
フルタイムの献身者です。「献身」という言葉に誤解があるので、説明します。
献身とは職業を捨てることではありません。
❌ 献身=仕事を辞めて牧師・宣教師になること
⭕ 献身=人生の全ての所有権を神さまに渡すこと
"私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。"
ローマ人への手紙 14章8節
"あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。"
1コリント10章31
どんな仕事でも、フルタイムの働き人です。
もちろん、教会から生活費をもらって仕える立場の人もいます。「ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。」とあります。(エペソ4.11)
役目の違いであって、どちらが上とか、霊的なランクがあるのではありません。
※東栄教会の執事会ではウイクリフ宣教会で出版した「送り出すものとして」という本で学びをしています。これはいわゆる宣教師を送るための学びなんだけど、実際に繰り返し言われているのは、宣教師だけ奉仕しているのではない、ということです。送り出すものたちがいて、教会としてのチームがあって、初めてそれは成り立っている、ということを学ぶ本です。「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。」(ローマ10.15)言う本です。
牧師や宣教師に按手とか、手を置いて祈ります。これは一体性を表す象徴的な行為です。私たち自身と一つです、という表明、キリストにあって一つの体、送り出される人も、送り出す人も、それぞれ器官であって、一つの身体であることを表します。柚帆だけが頑張っているのではないし、市子だけが頑張っているのではありません。斎藤先生だけががんばってメッセージを用意して伝えているのではありません。僕らは一緒にささげられた身体の一部です。違うのは役割です。
全てのクリスチャンは献身者です。全ての世帯の長子の代行者として、レビ人が実際には直接的な奉仕をしました。両者は一つです。神様に聖別されたのは、レビ人だけでなく、全ての人です。今も同じです。
どんな立場であっても、僕らは神様に聖別された献身者です。
どんな役目も神様のものです。
次の問いを考えてみてください。
1 この仕事(立場)で神の栄光は現されているか?
2 この働き方は神様と隣人を愛するものか?
この二つが「はい」なら、それは立派な「献身」です。
もしも、この仕事、今のやり方は神様と人を愛さない、と思うなら、この仕事が神様の栄光を表さない、と思うなら、もっと神様を愛するための働き方、やり方を求めて祈る時だと思います。
みなさんは、死ぬべきところを救われました。神様に取り戻され、聖別され、神様のものとなった人です。
僕らは主のものです。聖別されたものです。
自分の家に預かっている子どもたち、仕事、お金、時間、全部主のものです。神様のために、神様の力と愛を表すために、手放し、神様のものとして用いてもらいましょう。
自分のための家族ではなく、人生ではなく、神様に救われた人生、神様のものとなった人生です。
僕らに関わる全てのものは神様のものです。
もし、手放してないもの、自分の思い通りにしようとしてるものがあったら、もう一度神様に明け渡しましょう。
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