2023年10月18日水曜日

アモス8章

 アモス8章


見えない神様よりも、見えること、わかること、できること、結果が出ること、儲かることをしたがるのが僕らです。つまり、神様に頼るより自分の力と知恵で生きたいのです。聖書によると、神様に対する罪とは善悪を自分で決め、自分が神のように思い通りにすることです。反対に聖書が一貫して僕らに教えている義とは「神様のことばを信仰(信頼)すること」です。


立ち止まって神様に聞き、神様の良くして下ったことを思い、感謝し、賛美するための時間を神様はセッティングしてくださいました。イスラエルでは新月の祭り、安息日、というように立ち止まって神様と過ごし感謝する日が決められています。ところが、自分が神のように振る舞う時、その時間は邪魔なもの、いらないものです。アモスの時代のイスラエルは「新月の祭りはいつ終わるのか。私たちは穀物を売りたいのだが。安息日はいつ終わるのか。麦を売りに出したいのだが。」(5)と言うようになっていました。しかも、やりたい商売とは貧しい人をだまし、利用し踏みにじって儲けることでした。



(4-5)

4,聞け。貧しい者たちを踏みつけ、地で苦しむ者たちを消し去ろうとする者よ。

5,あなたがたは言っている。「新月の祭りはいつ終わるのか。私たちは穀物を売りたいのだが。安息日はいつ終わるのか。麦を売りに出したいのだが。エパを小さくし、シェケルを重くし、欺きの秤で欺こう。

6,弱い者を金で買い、貧しい者を履き物一足分で買おう。屑麦を売ろう。」



彼らにとって神様のことばなどどうでもいいもので、自分の悪知恵こそが富の源でした。そんな彼らに神様は裁きを与えます。その時に彼らは自分の力や富は何も役に立たないことを知ります。彼らはあえて自分から神様のことばを捨ててきました。ところが、神様の裁きの日には自分の知恵など何の助けにもなりません。その時になって彼らは神様の言葉を求めますが、与えられません。自分から願ってそれを拒否し、捨ててきたからです。お望み通りのことが起こります。



(11-12)

11,見よ、その時代が来る。──神である主のことば──そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことの飢饉である。

12,彼らは海から海へと、北から東へとさまよい歩く。主のことばを探し求めて行き巡る。しかし、それを見出すことはない。



今、僕らが神様のみことばを聞くことができるのは恵みです。神様のことばは地上のいのちが終わってもなくならず、世界が滅んでもなくならないからです。イエス様は「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」とおっしゃいます。(ルカ21.33)


神様の言葉を無視して贅沢に過ごした人が死んだ時、裁きの火の中で苦しみながら「炎の中で、苦しくてたまりません。」と言います。(ルカ16.24)そして彼はまだ生きている家族に「彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」と願います。(ルカ16.28)ところがアブラハムは『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』と答えます。(ルカ16.29)


神様の言葉を無視することは最悪です。罪とは善悪を自分で決め、自分が神のように思い通りにすることです。反対に、救いとは、いのちとは「神様のことばを信仰(信頼)すること」です。今日も神様のことばは聖書によって、御霊によって語ってくださっています。時間ととって、静まって、手を止めて聞きましょう。「聞く者は生きるのです。」(ヨハネ5.25)ハレルヤ!





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