この世界は本来は神様のものですが、今は悪魔の支配下にあると聖書は言います。悪魔の支配下から神様に選び出された人がクリスチャンです。チーム移籍をしたようなものです。
(1ヨハネ 5:19)
私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。
神様のものとされた人と悪魔の支配下にある人たちはどうしても一致できません。イエス様はおっしゃいます。
(ヨハネ 17:16)
わたしがこの世のものでないように、彼ら(クリスチャンたち)もこの世のものではありません。
イエス様は平和と喜びを与える方です。家族間の争いを望まれません。…ですが、キリストについて行く人と、そうでない人がいるのでどうしても対立が起きてしまいます。キリストに選ばれ従う人は、そうでない人と価値観や目的が違います。もちろん、聖書は家族を愛するように教えています。敵を愛し、赦し、祝福するように教えています。が、考えの違いゆえに迫害を受けてしまうのも事実です。
(34-36節)
わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。
イエス様でさえ悪魔とかハエの長(ベルゼブル)と呼ばれて攻撃されるので、イエス様についていく人は同じように攻撃されます。(25節)そのような苦しみを受けますが、それでもイエス様を愛し優先してついて行くことは正しく良いものです。しかも、その先には驚くような勝利と祝福があります。
家族との関係を失ってしまうことさえもあります。でも、それで終わることはありません。失ったはずのものの100倍が与えられると書かれています。
(マルコ 10:29-30節)
イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。
イエス様について行くと、この世の安心や力や人気やお金を失うように見えます。十字架を負ってイエス様について行くとは、自分の命さえも手放してついて行くことです。ところが、イエス様のために手放した人は「それを自分のものとします」と聖書は断言します。
(38-39節)
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。
イエス様はこの世のどんな関係よりも優先されるべきかたです。逆に、この世の力やお金や人気や安心を求めるほどに、神様が与えてくださる永遠のいのちと祝福を失ってしまいます。「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」
(37節)
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
若いカップルが親の反対を押し切って一緒になる時、「親よりも相手を選んだ」ことになります。そのカップルは犠牲を払って相手を選んだことを喜びます。もしも、「親が反対するから…」という理由で別れるのならそんなに大事な相手ではありません。
同じように、僕らがイエス様を選ぶことは尊く、正しく、良いことです。愛することは他を手放すことです。イエス様を愛するために他を手放すことは永遠の命と祝福を受ける道です。
この世はキリストを嫌い、迫害します。日本でも何百年もキリストは迫害されてきました。キリストを嫌う人々は、クリスチャンを嫌います。逆に、クリスチャンを受け入れる人はキリストを受け入れます。
(40-42節)
あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。(…中略…)わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」
クリスチャンに対する態度は、キリストに対する態度そのものです。どんなに小さなことであっても、水一杯を飲ませることでも神様に喜ばれ、報いが与えられます。
神様のことばを預かって語る人を「預言者」と言います。その預言者を受け入れる人は、預言者と同じように神様に喜ばれ報いを受けると聖書は言います。預言者が偉くて、受け入れただけの人はえらくない、という差がありません。
(41節)
預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。
なんとなく、神様のみことばを伝える牧師さんや宣教師さんは偉い人で、それを支える人は2番目、という感じがあるかもしれませんが、聖書は「同じ報いを受けます」と断言しています。小さい者たちのひとりに水一杯を飲ませる人も同じく報いを受けます。子どもたちを愛して、彼らのための準備を地味にやってる人は、誰にも見られていなくても、天からの報いがあります。目立つメッセージをする人との差はありません。
ある宣教師が言っていました。
宣教師はその国で孤独です。手紙をもらうこと、祈ってくれていること、献金してくれることはすごく嬉しく励まされます。宣教師は宣教師だけで働いているのではありません。遠くにいる仲間が祈って支えて送金してくれることは宣教師の働きそのものです、同じです。どちらが尊いということはありません。
この世はキリストを嫌い、迫害します。そしてクリスチャンを迫害します。それでも、キリストを優先することは正しく良いことです。そして、苦しみに会っているクリスチャンたちを励まし支えることはキリストにしたことと同じです。
キリストに選ばれたゆえの悲しみや苦しみはありますが、その先の喜びと祝福に目をとめて歩めますように。
(ルカ 6:22-23)
人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。彼らの先祖も、預言者たちをそのように扱ったのです。
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