聖書は僕ら人間のことを羊のようだと言います。羊は弱くて遅くてキバもなく、目も鼻も悪くて、もし敵に襲われやすいし、襲われた時には反撃することができない無抵抗な動物です。イエス様は12使徒を選んで世の中に遣わすのですが、それはまるで弱い羊を送り出すようなもの、とおっしゃいました。しかも送り出されるこの世は恐ろしい狼に囲まれるような世界です。
(16節)
いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。
狼に囲まれた羊に勝ち目はありません。でもイエス様はムリとは言わず「ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」とおっしゃいます。力のない羊ですが、賢さが与えられます。「賢さ」とはイエス様のことばを聞いて実行する人のことです。
(マタイ7:24)
だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
僕らの弱く小さい頭で考えるより、イエス様のみことばを聞いて従うことは完璧な賢さです。最高に知恵のあるイエス様のことばを実行しなさい、とおっしゃいました。鳩のように素直に従う人は賢く、狼に囲まれても大丈夫です。
弱い羊が自分の知恵や経験で狼に勝てると思ったら大間違いです。
(17-20節)
人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。
イエス様が言われた通りに、この後使徒たちは何度も逮捕されて苦しめられます。でも、それらの逮捕や迫害は全部がイエス様のことを話す機会になりました。ある時、使徒ペテロとヨハネはある歩けない人のために祈って彼は歩けるようになりました。人々に「これはイエス様の力によるのです」と話していたら逮捕され、結局、偉い人たちの前でも同じようにイエス様を紹介することになりました。(使徒4章)
使徒パウロはローマまで旅をしてイエス様のことを伝えました。が、それは自分で行ったのではなく、逮捕されて拘束され護送されたからです。拘束されていたので、彼は出かけることができず、多くの手紙を書きました。そして、それが新約聖書となりました。迫害が用いられてイエス様の福音が伝わっていることがわかります。イエス様はあらかじめ使徒たちにアドバイスしてくださり、心配ないようにしてくださいました。捕まった時に「何を話そうかと心配するには及びません。」「話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」(19-20節)
イエス様は絶対に守られることを保証してくださっています。全ての苦しみは神様の許可の範囲内です。だから恐れる必要はありません。
(28-31節)
からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。
実際に弟子たちは殺されても安心していることがわかります。
ステパノという弟子は迫害され、石打の処刑を受けますが、その直前の様子にこう書かれています。
(使徒6:15)
議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。
いよいよ処刑される時にも彼は聖霊に満たされ、喜びと平安に満たされています。
(使徒7:55-56)
しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
ステパノは弱い羊です。でも、彼はイエス様によって聖霊に満たされていました。使徒パウロとシラスもあるとき拷問を受けました。ところが彼らは拷問を受けて傷だらけでも賛美の歌を歌っています。
(使徒16:22-25)
長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。(…中略…)真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。
イエス様は「恐れてはなりません」とおっしゃいます。苦しみや迫害は全て神様の許可の中でだけ起こるし、それは用いられるからです。「雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」
同じように、僕らもこの世で生活することは、狼に囲まれた羊の生活です。この世は攻撃してきます。そして僕らは自分の力で立ち向かうことはできません。それでも、心配はいりません。「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」とイエス様は言われます。「どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。」「話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」
試練はありますが、安心できます。イエス様が「心配するには及びません」「恐れることはありません」と言ってくださっているからです。信じる人には必ず聖霊が与えられ、神様のことばが与えられています。今日も神様のことばに聞き、従いましょう。恐れることはありません。平安と喜び、そして神様の愛は僕らから取り去られることは絶対にありません。保証されています。ハレルヤ!
(ローマ 8:38-39)
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
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