民数記7.11-89
僕らはいつもラクしたい、便利にしたい、時間をかけずに終わらせたい、と思います。それは聖書を読むときも同じです。民数記7章は会見の天幕が完成した時にイスラエルの12部族の代表者が神様にささげものをした箇所です。
ここを読むと全く同じ内容が12回も繰り返して書かれています。「なんでこんなに繰り返して書かれているんだろう?」「もっと簡潔な書き方ないの?」と思ったりしそうな箇所です。ところが、聖書は聖霊によってそれを意図して書かれました。
"預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。"
ペテロの手紙 第二 1章21節
聖霊に動かされたモーセは祈りながら、神様と対話しながら書きました。もしかすると「神様、ここは簡潔に要約して書きましょうか?」と言ったかもしれません。ですが、神様はここを特に丁寧に、各部族の代表者が何をささげたか、そして次の部族の代表者も丸一日かけて何をささげたか、その内容が同じであったこと、それぞれの部族がささげたことを繰り返して記録することを大事なこととされました。そして神様は僕らにこれを繰り返して読んでほしいと願っておられます。
"最初の日にささげ物を献げたのは、ユダ部族のアミナダブの子ナフションであった。
そのささげ物は、聖所のシェケルで重さ百三十シェケルの銀の皿一枚、七十シェケルの銀の鉢一つ。この二つには穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉がいっぱいに入れてあった。
また香を満たした十シェケルの金のひしゃく一つ。
全焼のささげ物として若い雄牛一頭、雄羊一匹、一歳の雄の子羊一匹。
罪のきよめのささげ物として雄やぎ一匹。
交わりのいけにえとして雄牛二頭、雄羊五匹、雄やぎ五匹、一歳の雄の子羊五匹。これがアミナダブの子ナフションのささげ物であった。"
民数記 7章12~17節
最初にささげたのは、ユダ族の代表ナフションです。ナフションは部族の代表なので、彼個人からではなく、全員からのささげものです。
「一番価値のあるものは主のものです」という気持ちの表れとして金や銀を神様にささげました。
「穀物や収穫は全て主からのものです」という表れで穀物や小麦粉をささげました。
「祈りと賛美をささげます」という表れで香をささげました。
「私たちのいのちは主のものです」という表れで全焼のいけにえをささげました。
「私たちの罪をお赦しください」と願いをもって罪のきよめためのいけにえをささげました。
「神様との愛と平安の交わりの中で生活します」と願い、交わりのいけにえをささげました。
ユダ族の全員は自分たちの代表が丸一日かけて神様の前にささげていることを知ります。代表がやることは自分たちがやることです。このささげものは全員の神様への献身を表すものでした。
次の日にはイッサカル族の代表ネタンエルが、全く同じものを丸一日かけて捧げます。(18節から23節)記録されている内容は、部族と代表者の名前以外は全て同じです。
神様はこれを省略することがなく、これらを全員が自分のこととして神様にささげたことを思い起こさせるかのように僕らに書いています。
その後、残りの10部族も分も全く同じ記録が僕らに伝えられています。(24節から83節)人数の多い部族も人数の少ない部族も関係ありません。彼ら全員が丸一日かけて、神様にささげものを持って献身を表明する日をつくりました。全部族が神様にささげるだけで12日間かけています。神様はそれを省略せずに記録し、僕らに読ませようとしています。
僕らはなるべくラクに、効率よくすることを求めますが、神様はそれとは真逆のようです。丁寧に、時間をかけて、ゆっくりと、そしてどの人も優劣なく、神様の前にささげることの尊さと喜びがこの箇所にはにじみ出ているかのようです。
僕らももう一度、神様の前で時間をかけましょう。要約したり読み飛ばしたりしないで丁寧に神様に時間や力やお金をささげましょう。祈りをささげましょう。賛美をささげましょう。教会の人数が多くても少なくてもその差はありません。いつも丁寧に、神様に最高のものをささげ、すべてのものが神様からいただいたものであることを宣言し、献身のあらわれとして自分をささげましょう。罪を認め、丁寧に悔い改めの祈りをささげましょう。
神様は効率を求める方ではなく、1人として簡単に扱うことをしない神様です。僕らの人生は神様のものです。ハレルヤ!
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