マタイ27.27-44
ありえないほどの虐待、人格否定、暴力を受けて殺されたのがイエス様です。身体的にも精神的にも社会的にも全てが剥奪され抹殺されました。これは、罪のある人間が受けるべき神の裁きです。罪のない聖なる神様の子が、汚れた罪人のように扱われています。聖書はそのイエス様の苦しみをいつも思い出すようにと言います。
(27-31)
27,それから、総督の兵士たちはイエスを総督官邸の中に連れて行き、イエスの周りに全部隊を集めた。
28,そしてイエスが着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せた。
29,それから彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかった。
30,またイエスに唾をかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたいた。
31,こうしてイエスをからかってから、マントを脱がせて元の衣を着せ、十字架につけるために連れ出した。
これはイエス様が「自ら」(1ペテロ2.24)僕らの罪と神の怒りを背負うためにされた「身代わり」だと聖書はいます。(1ペテロ3.18)
(ペテロの手紙 第一2章24節)
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。
(ペテロの手紙 第一3章18節)
キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。
当時、死刑囚の苦しみを和らげるぶどう酒を飲ませるのが一般的でしたが、イエス様は飲みませんでした。
(34)
彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。
聖なる方は罪人の代表として十字架の上にされされ、並べられて笑われます。
(38-44)
38,そのとき、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右に、一人は左に、十字架につけられていた。
39,通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。
40,「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
41,同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。
42,「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。
43,彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
44,イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
ただ黙ってこの苦しみを忍耐され死刑に従われたのは、その先に復活があり、僕ら罪人の赦しがあるからです。そしてまた、イエス様を信じた僕らも同じように他人の罪のために忍耐することがあります。それはイエス様の苦しみと忍耐に連帯することだし、しかも神様に喜ばれることだと聖書は言います。(1ペテロ2.19)
(ヘブル人への手紙12章2~3節)
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。"
(1ペテロ2.19-21)
19,もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。
20,罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。
21,このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。
裁く権威のある神様が、裁かれる側になって忍耐し愛し赦しててくださいました。そのイエス様を信じた時から僕らもイエス様と一緒に自分を捨てることができるようになりました。肉の欲は自己主張をし、権利を主張し、自分の正しさを主張します。でも、イエス様は自分を捨て、敵を赦し愛する忍耐を与えてくださいます。今日も反抗を耐え忍ばれたイエス様のことを考えて歩めますように。自分が上に行くのではなく、人を生かすために全てを手放して苦しみ、忍耐してくださったイエス様に倣うことができますように。
0 件のコメント:
コメントを投稿