神様は愛する僕らの罪を放っておきません。父が愛する子を叱るように、必ず罪を叱ってくださいます。ダビデは他人の妻に情欲を燃やし、権力を使って自分のところに来させ、姦淫し、バレないように偽装し、その夫をわざと戦死させました。(11章)夫ウリヤにとって、奪われた妻はたった一人の大事な愛する人です。また、妻にとっても殺された夫はたった一人の大事な愛する夫です。神様は残酷な罪を犯すダビデを放っておきません。
神様は預言者ナタンを遣わして、ダビデに「他人のかわいい子羊を奪う残酷な金持ち」のたとえ話をしました。ダビデはそれが自分のことを言われているとは全く気がつきませんでした。
(2-4節)
主がナタンをダビデのところに遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った。「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、
貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。
あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました。」
ダビデはこの残酷な人に対して怒り出します。この人にあわれみの心はなく、あまりに傲慢で身勝手すぎで死刑だ!と怒ります。でも、これこそがダビデの姿でした。
(5-7節)
すると、ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。
その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。
預言者ナタンは「あなたがその男です」と言い切ります。
(7-9節)
ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。(…中略…)どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。
ダビデも僕らも他人の罪には敏感で他人の失敗は責めるけども、自分の姿には全く盲目です。他人の罪をさばき、責め、怒る人には必ず同じ罪があると聖書は言います。もっと大きな罪があるとイエス様はおっしゃいます。
(ローマ2:1)
すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。
(マタイ 7:3-4)
なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁(大きな柱、丸太)には気がつかないのですか。
兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
神様はダビデに良いものばかりを与えてくださったはずです。
だのに、ダビデはそれを忘れて堕落しました。
堕落は神様が与えてくださったものを忘れ、感謝を忘れる時に起こります。
(7-8節)
イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。
神様の怒りはあります。そして、神様の教育的なムチもあります。ダビデはこの罪の結果として、同じように家族が殺され、家族の中の性的な罪で苦しむことになります。
(11-12節)
主はこう仰せられる。『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行なおう。』」
罪の結果は苦しみです。元々は病気も死も姦淫もない世界を神様は造られました。でも、人間が罪を選んだ時に、お望み通りに罪は僕らにまとわりつき続けて苦しみます。ダビデは苦しむことになりますが、それでも神様は赦しを与えてくださいます。
(13-14節)
ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。
ダビデは罪を認め、告白しました。そして、神様はそんなダビデを赦してくださいました。赦されましたが、神様からの教育的な痛いレッスンは続きます。この痛い経験を通して、ダビデは自分がいかに罪深い人間か、そして、そんな自分が赦されることの感謝がいかに大きいか、詩篇をたくさん書いています。
ダビデの苦しみは罪の結果です。それでも赦され、用いられました。この罪があるダビデの子孫の中にイエス様が来て、この世に来てくださいます。今、僕らの人生も世界も罪の結果としての苦しみがたくさんあります。そんな苦しみはありますが、罪を認め、イエス様を信じた人への赦しは確定しています。
今日も神様は僕らの罪を放っておきません。父が愛する子を叱るように、必ず罪を叱ってくださいます。
そして、罪を認めて告白することは、罪が赦されることです。苦しみはありますが、赦しの希望は確定しています。感謝しましょう。
(13節)
「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。
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