2023年1月30日月曜日

2サムエル13.1-19

 神様が与えてくださる愛と、神様を離れた獣としての性欲は全然違います。神様の愛は相手を尊重しますが、後者は自分の満足だけを求めます。ダビデの子アムノンは母親が違う妹タマルを「愛している」と言いました。(4節)しかし、実際は獣として性欲を満足させたかっただけです彼は無理矢理にタマルを強姦し、しかも、その直後に嫌って追い出します。愛ではなく、自己満足を求めていたことがわかります。


(10-19節)

アムノンはタマルに言った。「食事を寝室に持って来ておくれ。私はおまえの手からそれを食べたい。」タマルは自分が作った甘いパンを兄のアムノンの寝室に持って行った。

彼女が食べさせようとして、彼に近づくと、彼は彼女をつかまえて言った。「妹よ。さあ、私と寝ておくれ。」

彼女は言った。「いけません。兄上。乱暴してはいけません。イスラエルでは、こんなことはしません。こんな愚かなことをしないでください。

私は、このそしりをどこに持って行けましょう。あなたもイスラエルで、愚か者のようになるのです。今、王に話してください。きっと王が私をあなたに会わせてくださいます。」

しかし、アムノンは彼女の言うことを聞こうとはせず、力ずくで、彼女をはずかしめて、これと寝た。

ところがアムノンは、ひどい憎しみにかられて、彼女をきらった。その憎しみは、彼がいだいた恋よりもひどかった。アムノンは彼女に言った。「さあ、出て行け。」(…中略…)彼は彼女の言うことを聞こうともせず、召使の若い者を呼んで言った。「この女をここから外に追い出して、戸をしめてくれ。」(…中略…)召使は彼女を外に追い出して、戸をしめてしまった。タマルは頭に灰をかぶり、着ていたそでつきの長服を裂き、手を頭に置いて、歩きながら声をあげて泣いていた。



この罪は父親ダビデの罪のコピーでもありました。彼は他人の妻を奪って強姦しました。(11章)ダビデの罪は、次の世代にまでくり返されています。神様がくださる愛は相手を尊重し、自分の利益を求めません。(1コリント13.5)


ダビデは「私は主に対して罪を犯した。」と認めて悔い改めました。そして、預言者ナタンは「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。」と赦しの宣言をしました。(12.13)それでも、罪の悪影響は次の代にまで及んでいます。ダビデは王権という力づくで他人の家庭を壊しましたが、今度は自分の息子が性暴力で家庭を破壊しています。罪を放置すると自分を苦しめるだけでなく、自分が属する共同体全体を苦しめます。


この事件が起こる前、まだ、アムノンがタマルを求めていただけの時、相談した友人ヨナダブも悪いと聖書は言います。友人ヨナダブは罪を犯すようにとそそのかし、その通りにしてアムノンはタマルを強姦します。この時ダビデの親戚全体に性的な罪を楽しむ雰囲気が蔓延していたようです


(3-5節)

アムノンには、ダビデの兄弟シムアの子でヨナダブという名の友人がいた。ヨナダブは非常に悪賢い男であった。彼はアムノンに言った。「王子さま。あなたは、なぜ、朝ごとにやつれていくのか、そのわけを話してくれませんか。」アムノンは彼に言った。「私は、兄弟アブシャロムの妹タマルを愛している。」ヨナダブは彼に言った。「あなたは床に伏せて、仮病を使いなさい。あなたの父君が見舞いに来られたら、こう言いなさい。『どうか、妹のタマルをよこして、私に食事をさせ、私に見えるように、この目の前で病人食を作らせてください。タマルの手から、それを食べたいのです。』」


「友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。」と聖書は言います。(1コリント15.33)僕らも誰に相談するかは大事です僕らはまず神様に相談すべきです。そして、神様にいつも相談し聞き従っている人に相談すべきです罪を好む人には相談すべきではありません。僕らの家族や友人という共同体は助け合い、愛し合う共同体にもなるし、悪を助長する共同体にもなります。小さな罪は全体を汚染して行きます。


僕ら全員に必ず罪があります。神様の前で罪に大きいも小さいもありません。心の中だけで姦淫を犯した人は実行犯と同じだとイエス様はおっしゃいます。(マタイ5.28)罪を認め、告白した人は赦されます。イエス様の赦しは完璧です


赦された僕らが次にすることは「感謝して神様に従う」ことです聞いても従わない人もいます。ダビデは子どもたちに性的な罪を教えなかったようです。しかし、ダビデは赦されました。だから、過去がどうであっても教えることができたはずです


ダビデの罪は赦されました。僕らの罪も赦されました。過去がどうであっても、僕らは無罪です。そして、今度は、赦されたものとして、堂々と、恐れなく子どもたちに、友達に、仲間たちに「罪を犯してはならない」と教える番です


「お前みたいな奴が言うな」と言われても大丈夫です赦しは完璧です。完全無罪です。罪を放置することは、自分も自分の家族も次の世代も苦しめます。罪は小さいうちにやめましょう。罪をしている人がいたらやめるように言いましょう。それこそが祝福です。罪の連鎖を止めるのは、イエス様の十字架の恵みです。そして、その恵みに感謝して従う僕らの役目です。ハレルヤ!

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