2026年8月31日月曜日

ガラテヤ2.20 リバーカンファレンスメッセージ

 ガラテヤ2.20 リバーカンファレンスメッセージ


リバーワーシップスクールのカンファレンス三日間、本当に楽しかったです。

講師をやらせてもらって感謝なことです。


⚫︎まず全部参加できることがほんとに感謝です。

今回は定員いっぱいで締め切りもあった、ってことを聞いて、講師なので全部参加できて他の先生たちのメッセージを聞いたり、皆さんと一緒に賛美できること感謝です。


⚫︎あと、講師控え室が面白すぎます。集会5分前でも爆笑してます。もう面白すぎる。ナイトdeライトの楽屋もそうです。本番も素晴らしいけど、楽屋はもっと面白いです。


でも戦いもあります。

皆さんも、ここに来るのにラクして来てる人はいないはずです。

この三日間のスケジュール空けて、移動を考えると4-5日スケジュールを空けて全国から来ています。お金もかかるし、家族とか職場とか教会とか、いろんな調整をして参加したと思います。それは尊いささげものだし、犠牲でもあるし、戦いでもあったと思います。

それでもよくしてくださるのは神様の恵みです。すべての栄光は主にあります。神様が皆さんを豊かに祝福してくださいますように。


僕にとっても全部が恵みです。今朝まで神様、メッセージを与えてください。って祈ったし、祈ってもらいました。教会の皆さんにも、リバー生の何人かにも、祈ってください、とお願いしました。朝早く起きて、シンセの仕込みをやって、ああ、間に合うかな、って思いながら、でも感謝だな、って思いながらです。


今日のメッセージも神様の恵みの中で与えられます。

僕が頑張ってひねり出した話はいりません。


神様が与えてくださる生きた恵みのみことばが与えられますように。主が確かに生きて働いておられる証の言葉が与えられますように。

聖書は、霊感された神様のことばです。僕らに命を与え、新しくし、力を与え、矯正してくれると信じます。今日、イエス様がみことばを通して僕らに語ってくださると信じます。


"私はキリストとともに十字架につけられました。

もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。"

ガラテヤ人への手紙 2章19~20節


今日のメッセージ、簡単に言うと二つです。


1 あなたは死んだ

2 キリストが生きている


まず神様は僕にも皆さんにも「あなたは死にました。そう思ってください」

と言います。この箇所だけじゃないです。


"あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。

あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。"

コロサイ人への手紙 3章3~4節


ここも「あなた方は既に死んでいると思いなさい。」です。いや、「すでに死んでいて」とあります。

イエス様と一緒に十字架につけられて「古い自分は死んだ」と、そのように思ってください。

今、生きてますけど、生きてるのは自我にまみれた、欲にまみれたあなたではなくて、キリストが生きてるんです。しかも、キリストとつながる人は、キリストの栄光が表されるときに、一緒に、「キリストとともに栄光のうちに現れます。」


皆さんが賛美奉仕できた、参加できて感謝だった、と思います。

これら全部、あの先生がしてくれたとか、メッセージが良かったとか、賛美が良かった、ではなくて、キリストの命の現れです。あの先生がすごかった、ではなく、あの先生を用いてくださるイエス様がすごかった、ってことです。


全てがキリストの恵みの表れ、キリストの力の表れ、キリストの栄光の表れです。

誰が何をした、ではありません。恵みです


ローマの6章も同じです。


"私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。"

ローマ人への手紙 6章4節


「バプテスマ」ってもともと一体になるとか浸されるって意味があるんだけど、キリストとバプテスマして、浸されて、繋がって、キリストと死んだのです。

あのキリストの十字架とともに肉と欲にまみれたあなたは神の呪いを受けてキリストと一緒に葬られました。


でもそれだけじゃありません。キリストが死者の中から復活して、栄光を持って、すべての権威を持って、今生きておられるように、僕らもその栄光を受けて、権威を受けて、愛を受けて、尽きることのない命を受けて、今新しく生きています。


今生きているのはキリストの命が生きています。

あなたの栄光じゃないです。誰々先生の栄光じゃないです。あなたの中に、あの人の中にキリストの栄光が現れています。


1 あなたは死んだ

2 キリストが生きている


僕らは1回死ぬ必要があるんです。

自分の頑張りで、「愛しました」とか「賛美しました」とか「宣教しました、奉仕しました」という自分は死ぬ必要があります。


「こうしたい、ああしたい」「僕の人生こうなりたい、ああなりたい」「教会がああればいいのに、こうなればいいのに」って夢を持つのいいし、ワクワクするのも楽しいけど、

でも、それが自分の野望を叶えるためなら、肉の欲、目の欲、暮らし向の自慢なら、一度死ぬ必要があります。

毎日肉の欲は付きまといます。だから、毎日手放す祈りが必要です。


僕は毎朝主の祈りを祈ります。


「御名が聖なるものとされますように。」です。

自分の名前でなくて、神様の名が聖なるものとされ、崇められますように。

自分の願いや予定じゃなくて、計画や計算じゃなくて、神様のみ心が天で行われるように地でも行われますように。


主の祈りは手放す祈りでもあります。

「み心が天で行われるように地でも行われますように。」って祈る時、

僕の言葉づかいで祈ります。こんな風にです。「神様、僕の思い通りにならないようにしてください。神様の思い通りにしてください。」って祈ります。


毎日一回死ぬというか、手放す祈りは必要です。死ぬ祈りと言えるかもしれません。

自分は死んだと認めて委ねる祈り、と言ってもいいかも知れません。死んだ人は文句言いません。


とはいえ、神様が栄光を表されるとき、神様すごいな、って現される時、やっぱり人を用いて何かをなしてくださいます。賛美もそう、メッセージもそう。神様の栄光、偉大さ、高さ広さを表してくださるけど、多くの場合、人を通して表されます。


昨日の小森さんの話も、宇多川さんの話も、本当に神様の栄光でした。

でも、みんなちゃんと一回死んでるな、って思いました。


ちゃんと試練を通して一回死んで、自分には何もない、ってところを通らされて、だから神様が用いて、キリストが生きておられることを表す器として、変えられ、用いられています。

僕らはキリストとともに死んで、自分が死んでます。今生きてるのはキリストです。用いてくださるのはキリストです。宣教させてくださるのはキリストです。


能力もある、やる気もある。「やってやるぜ!」という人は一回弱くされて、そして、何もできない、って体験をしてから、復活します。

もう、あの人たちが生きているのではなく、僕が生きているのではなく、復活のキリストが生きておられます。用いてくださるのは神様です。神様の祝福だけです。人の苦労は何も加えないって聖書は言います。



"人を富ませるのは主の祝福。人の苦労は何も増し加えない。"

箴言 10章22節



今いろんな箇所を引用したけど、1つ目のポイントはキリストとともに死ぬってことです。

手放す必要があります。強制的に手放させられることもあります。


賛美も宣教も奉仕も良いことに見えます。

でも、外からは見えない高ぶりとか、神様より自分の力に頼ってることとか、自分の能力や手柄を求めることとか、外からはわからないです。

もしも自我が中心にあるなら、手放す必要、死ぬ必要があります。


"同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。"

ローマ人への手紙 6章11節


欲に対して死んだものだ。と認めなさい。

自分の計画、自分の計算、自分の経験に頼るような自分は死んだものだと認めなさい。認め続けなさい、これは「継続的な命令」だそうです。


⚫︎自分を捨てることを教えてくれた阿部先生


このことをしっかり若い時に教えてくれたのは師匠の阿部先生です。親子くらい歳が離れてます。


23歳で信仰を持って、それからずっと、35年以上同じ教会です。今もそうです。

ほんとに硬い厳しい先生と一緒に僕35年間一緒に同じ教会で礼拝しました。そのうち25年間は一緒に牧師として奉仕しました。


今回も何人かの人に言われたんですけど、遠藤先生ほんとに楽しそうだし、遠藤先生の演奏してる姿を見たら何かもう全身全霊で喜んでるのわかりましたって言われました。

意外と思われるんだけど、僕自分の教会で手をあげてハレルヤー!って感じではないです。ちょっと文化が違うんです。

師匠である阿部先生、世代も違うし、育ちも全然違うんだけど、その先生やっぱりワーシップソングが好きではないです。ギターも使わないし、ドラムなんて論外です。

だから、僕は30年以上伝統的な讃美歌だけで礼拝する教会の文化の中で育ちました。

遠藤牧師と阿部牧師、キャラや考えが合わないのでは、って周りから心配する声もありましたが、阿部先生から大事なことを学びました。


僕が30代で牧師成り立ての頃言ってくれました。「遠藤さん、牧師としてうまくいかなかったり思い通りにならなかったら、それでいいと思います。牧師として批判されたり攻撃されたりしたらそれはいいことですよ。」

「なんで?」って思います。

「イエス様がそうだからです。イエス様はいつも批判され、自由を奪われ、捕えられ、愛するゆえに苦しんで、自分を捨てて、十字架の上で死んでくださいました」

「だから遠藤さん、思い通りにならなかったり苦しめられたりすることがあってもそれでいいと思います。遠藤さん、イエス様に従いたいんでしょ」


これは助けになりました。言葉遣いは違うけど、僕の言葉に翻訳して簡単にいうと「あなたは死になさい」ってことです。

僕も素直にそう思ったし、ああしたい、こうしたいっていうのは二の次と思いました。

死んだ人は「どっちの曲が好き」とか言いません。


僕が言いたい事は、皆さんがこれから自分の教会に帰っていく時に、この祝福を教会に流していくか、止めてしまうか、ということです。


1粒の麦が死ななければ1粒のままです。皆さんがリバーに行って感謝しても、皆さんがキリストと共に死んで全部明け渡さなければ1つのままです。

でも皆さんが死ねば、自分を捨てて、イエス様に明け渡してキリストとともに死んだものとして帰るなら、多くの実を結びます。

この素晴らしい経験を与えられた皆さんが帰っていくときに、罪深い自分を捨てて、高ぶらず、批判したり、見下したりする自分を捨てて、あれがいい、これがいい、って自分を捨てて、イエス様から与えられる愛によって、自分の家族を愛し、教会を愛し、仕えていくときに、この祝福は何倍にもなって流れてきます。

もし皆さんが自我を捨てずに批判したり、上から目線になったり、比べたりするなら、やっぱりこの祝福を止めてしまいます。


死んだ人はあのスタイルがいい、このスタイルがいい、って言いません。

死んだ人があの兄弟の賛美はイマイチとか言いません。


自分を捨てて、死んだものとして主と教会に仕えるなら、必ず生きておられる主の栄光と祝福が現れます。


2、キリストが生きている。


大事なのは、私が生きてるのでなく、キリストが私の中に生きておられることです。


リバーで学んで祝福を持って帰るんだけど、この素晴らしい体験を分かち合ったり教えたりするのに、もし皆さんの中に、生きておられるイエス様と一緒に、イエス様の愛と一緒に表されなければ、やかましいドラです。1コリント13章にそうあります。


愛がなければ、どんな信仰があっても、山を動かす信仰があっても、持ち物全部まずしい人に捧げてもやかましいドラ、うるさいシンバルです。


愛がなければうるさい。この文脈は、「賜物を求めなさい」って流れです。

賜物です。愛は賜物です。神様からのプレゼントってことです。

神様からの愛を求めなさい、という文脈です。


私の中に生きているイエス様から流れ、あふれ、周りを潤す愛です。

その愛と一緒にリバーで学んだめぐみをお伝えするのが大事です。そうでなければうるさい、やかましいだけです。

「愛しましょう。」って言うと、それだけだとやはりがんばり信仰です。


だから、1回「僕の中には愛がない」って認めましょう。

僕には愛することができない。愛はないのに、「こんな素晴らしい集会だった」と自慢したがる、そんな自分です。


この愛が賜物じゃなければ、自分で愛しましょう、って話なら疲れます。

愛する事は僕じゃなくて私におられるキリストキリストの御霊によって与えられる愛です。

キリストの愛は聖霊によって注がれています。

僕じゃなくてキリストの愛によって愛しましょう。


⚫︎KBIの先生からのアドバイス。


3月に関西聖書学院に行きました。なんと卒業式でメッセージしてくださいとオファーがあって行かせてもらったんです。光栄だなぁと思いました。いろんな先生と個人的に話す時間もありました。


尊敬する先生にちょっと相談したんですね。「自分の教会の人でも、牧師会に行っても、非常に心を閉ざしているように見える人がいます。閉ざしているように感じるし、心が通わない感じがします。どうしたらいいですか?」「どうしたらこの賛美の雰囲気、この喜びの雰囲気、この御霊の風が吹いているような祝福を流すことができるんですか?」

と聞きました。


そしたら80代のもうレジェンドみたいな先生は即答で教えてくれました。

「あぁ、それはね、あなたが閉じた人を好きになればいいんですよ」


衝撃的な答えでした。格言みたい、って思いました。


きっと皆さんもあると思います。「この人は硬いなぁ。この人には喜びがあるのかな?」って感じる人です。答えは「あなたが好きになればいいんですよ。」

続けてその先生言いました。「相手を変えようとしないことです。」

いやほんとにそう、と思いました。


僕はすぐわかりました。「好きになろう、好きになろう」頑張る話じゃなくて、御霊はその人のこともう大好きだから、イエス様の御霊はその人を愛してるから、いや、イエス様はその人のために命を捨ててくださるほどだから、です。


僕にできなくても、愛は御霊によって注がれているからだから、僕にはできなくてもできるんです。いや僕の中にいるイエス様が愛しています。そして僕を用いて愛を表してくださいます。


好きになりましょう、って以前に御霊がもう大好きです。

だから御霊に心を明け渡しましょう。まず自分を捨てて献身しましょう。

その時に閉じた感じのする人のことを御霊と一緒に大好きになってます。

皆さんもあのスタイルがどうとか、批判とか比較はどうでも良くなっています。

そのような祝福が皆さんの教会に流れていきます


⚫︎自分も愛そう。愛されているから


隣人を愛する御霊です。そして、御霊は僕のことも愛してくださっています。

自分嫌いって言う人、やっぱり増えてるなぁって思います。自分クズだなぁとか、お前はいらない、邪魔臭いって悪魔の教えが教会の中にも入ってきてるなぁっていう感じがします。


だから御霊によって隣人を愛するんだけど、自分だって大事な大事な宝物です。

だから自分のことも愛しましょう。自分も赦しましょう。自分のこと大切にしましょう。


あなたが決心することじゃなくて、イエス様が血を流して、命を捨てる位にあなたのこと宝物だと思っているし、あなたのことを愛しています。

あなたを愛するためなら何でもします。あなたを取り戻すなら、十字架で裸で殺されてもいい、そういうイエス様です。


「自分のことも愛しましょう」っていうとまた頑張りっぽく聞こえるんだけど、神様が愛してくださってるから、これが真実です。事実です。

もしできない人がいたら、もう一度正直にいいましょう。

「私、教会のあの人も嫌いだけど自分のこともっと嫌いです」って。

隠して良いクリスチャンのフリをしても意味がないです。

そんな偽善です。

僕には愛がない。でもイエス様は無限に愛してくださってます。


ほんわかした愛じゃなくて血だらけの愛です。あなたのために傷だらけです。

イエス様はそうやってあの人のこと愛して、あなたのことを愛しています。


⚫︎僕も愛されていた


僕、小学校の頃から、空中を飛んでくるものが怖かったです。

ボールとか、もう怖くて怖くて。体育でソフトボールとか、ドッジボールとか、僕にとってはもう地獄の時間でした。小学生の男子にとって、体育って大事なんですよ。スポーツができること、体を動かせることが大事なんです。

でも、そこについていけない奴って、その輪の中に入っていけないんですよね。

むしろ、邪魔くさい奴になってしまいます。

ソフトボールのチーム分けなんかでも、「遠藤来るな」ってなってくるんですよ。

だから僕、体育の時間はいつも泣きそうでした。

ある日、先生はみんなの前で僕を怒鳴りました。僕の心はもう殺されていました。


そんな傷を負った僕は、どうなったか。

中学校から音楽を始めたんです。最初はトロンボーン。次にピアノ。そして18歳からサックス。

でもね、傷ついた人って、怖いから必死にやるんです。

音楽を勉強しました。ピアノも一生懸命練習した。作曲の勉強も、めちゃめちゃしました。

怖かったんです。「また、お前はいらない」って言われるんじゃないか。
また仲間外れにされるんじゃないか。また笑われるんじゃないか。それが動機です。

明日、本番があると思うと、朝まで徹夜で練習するんですよ。

怖いからです。恐怖が僕を動かします。


僕の中に、「努力は報われる」という、ある種の宗教みたいなものができていったんです。「頑張れば何とかなる」「努力すれば認めてもらえる」

そういう教えが、どんどん自分の中に刷り込まれていった。

まだイエス様も知らない時代です。


そして、クリスチャンになっても、これがなかなか抜けなかったです。

イエス様を信じて、本当に感謝しました。

でも、そういう人がクリスチャンになると、一生懸命なクリスチャンになるんです。

よく祈る、奉仕する、聖書を読む。教会でどうなると思います?認められるんですよ。

「遠藤さんは熱心だね」って認められる。

でも、自分でも、それが自分の頑張りから来ていることに気づいてないんですよ。

だから、「イエス様に献身します」「神学校に行きます」って言う。牧師も喜ぶし教会の皆さんも応援してくれます。


僕は、神様の愛のことを本当には分かっていないまま、神学校に行っちゃったんだなぁと思います。

そして、頑張りました。そのまま牧師になっちゃいました。

そうすると、僕のメッセージも、「頑張れ」というものになっていくんですよ。「そんなんじゃダメだ」
「悔い改めなさい」「そんなことをしていたら地獄に行くぞ」みたいな、感じです。

「神様の基準に、あなたたちは達していない」
みたいなメッセージを、最初の頃はずっとしていました。


ある教会の婦人が、人知れず、こう思ったそうです。

「この先生は、全く神様の愛を知らない」わかる人にはわかります。

そして、そのためにずっと祈り続けてくれたそうです。

「熱心に献身します」「従います」「宣教します」って一生懸命やっていても、そこに愛がなければ、ただの自己実現なんです。


そんな僕が、神様の愛を知ったのは、34歳の時でした。

牧師になって数年経った頃、ある時、エレミヤ書の勉強をしていたんです。

そこに、こう書いてありました。



エレミヤ31.20

エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。──主のことば──


エフライムってそんな喜ばれてんだ、って他人事のように思いました。ただのお勉強です。

喜びの子。あなたのこと考えるだけで私のはらわたはわななくって、神様ってそんなにエフライムのこと好きなんだ、って思いました。

でも、次の瞬間ちょっと思っちゃったんですよ。

「神様、僕のことも好き?」ってちょっと思っちゃったんですよ。


次の瞬間、僕の心はあの泣いている小学校6年生のグラウンドに行きました。

そこでイエス様は僕を抱きしめてくれてました。

エフライムに言うのと同じように、抱きしめて、

「稔、あなたは喜びの子。私はあなたのことを思うたびに、私のはらわたはわななき、私はあなたをあわれまずにはいられない」と言ってくれてました。

僕は嬉しくて、嬉しくて、つい、「神様、嬉しい!」って言って泣きました。

神様を知らなかったあの6年生の時からずっと、神様は僕のことを抱きしめて、喜んで、愛してくれていました。ダムが決壊するように泣きました。泣きました。嬉しくて泣きました。


「今までずっと緊張していたのは何だったんだ」って思うくらいです。

神様が僕から離れた瞬間なんて、一回もありませんでした。ただ、僕が知らなかっただけです。

神様は僕のことをずっと喜んでいました。


僕、サックスがちょっとうまいんですけど、でも、あれは僕の深い傷から出たものです。自分で自分を守るために頑張るしかなかったんです。自分を守るために、必死で練習するしかなかったんです。

でも、神様はすべてのことを益としてくださいます。すべてを働かせて、益としてくださいます。

悪い出来事から良いものを生み出してくださる神様です。


皆さん、愛されてます。

皆さんの中にキリストが生きています。キリストの愛が注がれています。キリストが皆さんのことを愛しています。私たちが生きているのではなく、キリストが愛し、キリストの愛に包まれて生きています。

だから大丈夫です。


神様は皆さんの人生を、どんな過去も良いものに変えてくださいます。

「私の一生 良いもので満たす」と歌った通りです。

神様は悪いことさえも良いことに変えてくださいます。


愛されています。キリストが生きておられます。

ハレルヤ!


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