レビ7.1-14
空気や水、太陽の光、愛、友情など、本当に価値のあるものはお金では買えないし自分では作り出せないものです。すべての良いものは神様から与えられます。いのちも愛も神様のものです。そして、必要な食べ物は神様からのものです。エデンの園では、すべての食物は、ただ神様からの恵みでした。
レビ記7章には、祭司が代償のためのいけにえや感謝のいけにえを食べることについて書かれています。
その動物の肉を食べ、ささげられたパンを食べることは預言的な意味があり、それは罪のために死んで下さったイエス様のいのちと愛を共有することです。イエス様こそが人々の罪を背負い、神様の前で血を流して僕らの罪をきよめてくださった犠牲の愛そのものです。イエス様を信じ受け入れる僕らはイエス様の体の器官としてそのいのちや愛を共有しています。いけにえの肉を食べることは神様といのちを共有することです。良いものは全部神様から与えられます。
(7章1-8節)
1,代償のささげ物についてのおしえは次のとおりである。このささげ物は最も聖なるものである。
2,代償のささげ物は、全焼のささげ物を屠る場所で屠る。そして、その血を祭壇の側面に振りかける。
3,その脂肪はすべて献げる。すなわち、あぶら尾と内臓をおおう脂肪、
4,二つの腎臓と、それに付いている腰のあたりの脂肪、さらに腎臓とともに取り除いた、肝臓の上の小葉である。
5,祭司はそれらを祭壇の上で、主への食物のささげ物として、焼いて煙にしなければならない。これは代償のささげ物である。
6,祭司の家系に属する男子はみな、これを食べることができる。それは聖なる所で食べなければならない。これは最も聖なるものである。
7,罪のきよめのささげ物と代償のささげ物についてのおしえは一つである。代償のささげ物は、それを用いて宥めを行う祭司のものとなる。
8,祭司が、ある人の全焼のささげ物を献げる場合、献げた全焼のささげ物の皮はその祭司のものとなる。
祭司がそれを食べることは、その生活の糧を神様からいただくことの表れでもありました。彼らの収入は、人々が神様にささげられたものの中から与えられました。
(9-10節)
さらに、かまどで焼いた穀物のささげ物はすべて、また鍋や平鍋で作られたものはすべて、それを献げる祭司のものとなる。
しかし、油を混ぜたものや、乾いたままの穀物のささげ物はすべて、アロンの子ら全員のものとなり、等しく分けることとする。
ささげられた穀物の中から祭司のものが与えられます。このことは、新約聖書の「福音を伝える人は福音によって養われる」という原則にもつながっています。
(1コリント9:13-14)
あなたがたは、宮に奉仕している者が宮から下がる物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇のささげ物にあずかることを知らないのですか。
同じように主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。
今の牧師や宣教師も教会の人たちが神様にささげた献金の中から生活費をもらうのが聖書の原則です。大事なことは、全部が神様からのめぐみであって、教会が雇っているとか、給料を払ってあげているのではないことです。教会はキリストの体です。全てが神様からのめぐみであり、神様とのいのちの交わりです。
(11-14節)
11,主に献げられる交わりのいけにえについてのおしえは、次のとおりである。
12,もし感謝のためにそれを献げるのなら、感謝のいけにえと一緒に、油を混ぜた種なしの輪形パンと、油を塗った種なしの薄焼きパン、さらに、油を混ぜてよくこねた小麦粉の輪形パンを献げる。
13,感謝のための交わりのいけにえと一緒に、種入りの輪形パンを献げる。
14,そして、それぞれのささげ物から一つずつを取り、主への奉納物として献げる。これは、交わりのいけにえの血を振りかける祭司のものとなる。
直接的に神様の働きをする人も、そうでない人も、全ての人は神様からいただいたいのちと愛の中で生きています。だから感謝して「あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」と聖書は言います。(コリント人への手紙 第一 10章31節)もともと、すべての良いものは神様のものです。教会から生活費をもらう牧師は「卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。」(1ペテロ5.2)とあります。お金のための仕事ではありません。神様のいのちと愛の表れです。すべての良いものは神様のものです。いのちも愛も神様のものです。そして、必要な食べ物も収入も神様からのものです。ただ、感謝しましょう。ハレルヤ!
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