レビ6.14-30
よくある質問で「2000年も前のイエスキリストの十字架と、今の私ってなんで関係あるの?」というのがあります。
レビ記を読むと、それがよくわかりるようになります。旧約の時代、神様に捧げられた穀物のパンは神様に喜ばれる聖なるものでした。それを祭司たちも一緒に食べます。神様にささげたパンを神様と一緒に食べる人は、神様と交わりをする聖なる人とみなされました。
"すなわち、その中から穀物のささげ物の小麦粉ひとつかみと油を覚えの分として取り出し、穀物のささげ物の上の乳香すべてと一緒に、主への芳ばしい香りとして祭壇の上で焼いて煙にする。
残りの分はアロンとその子らが食べる。それを種なしパンにして、聖なる所で食べる。それを会見の天幕の庭で食べる。"
レビ記 6章15~16節
そのパンを食べた祭司たちは聖なる人とされました。「それに触れるものはみな、聖なるものとなる。」(18)とあるからです。そしてイエス様はそのパンを表すかのようにご自分のことを「いのちのパン」とおっしゃいました。
"わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」"
ヨハネの福音書 6章51節
イエス様を信じる人は、まるでイエス様の聖なる体を食べてつながる人のようです。新約聖書は次のように説明しています。
"私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから。"
コリント人への手紙 第一 10章16~17節
レビ記の時代は祭司だけが聖なるパンを食べましたが、イエスを信じる人は「祭司」と呼ばれています。(第一ペテロの手紙2章9節) 旧約時代の祭司が神様のみことばを聞き、教え、人々のために祈ったようにクリスチャンはみんなみことばを聞き、伝え、人々のために祈る祭司です。「それに触れるものはみな、聖なるものとなる。」(18)とあるように、イエス様を受け入れる人は聖なる人とされます。そのことを忘れないように、イエス様はパンを割いて一緒に食べるように言われ、「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」(ルカ22.19)とおっしゃいました。
イエス様は罪のためのいけにえでもあります。僕らの罪のために苦しみ十字架で殺されました。そして復活して今、生きておられます。レビ記によると、罪のきよめのためにささげた肉も祭司が神様と一緒に食べました。
"罪のきよめのささげ物を献げる祭司はそれを食べる。それを聖なる所、会見の天幕の庭で食べる。
その肉に触れるものはみな、聖なるものとなる。
レビ記 6章26~27節
同じように、イエスも信じることはまるでイエス様の肉を食べているかのようです。イエス様は「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」とおっしゃいました。(ヨハネ6.54)また、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」とも言われています。(ヨハネ6:56)
罪のきよめを既に終えてくださったイエス様と僕らはつながっています。いけにえの肉に触れた人がみんな聖なるものとされたように、イエス様を受け入れた人はみんな聖なる人とされています。
「朱に交われば赤くなる」ということわざがあります。人は交わる相手によって、善悪どちらにも感化されるという意味です。まさに、イエス様と交わる人はきよくされます。なぜなら、イエス様が既に神の呪いと刑罰と呪いを引き受け、その代価を支払済みにしてくださったからです。イエス様に触れる人は聖なる人です。2000年前にの十字架は僕らのためです。イエス様が赦しときよめを終えてくださいました。そのイエス様に今日もとどまりましょう。ハレルヤ!
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