佐藤薫さん葬儀メッセージ
●手放すもの、無くならないもの
祝宴の家に行くよりも、喪中の家に行く方が良い、と聖書は言います。なぜなら、そこには私たち全ての人がやがて経験する終わりがそこにあるからです。私たちが生きてるうちに人生の終わりに心を留めるようになる、と聖書はいいます。(伝道者の書7章2節)
私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。(テモテ手紙第一6章7節)
世界一の信仰者であるヨブという人の言葉が聖書に書かれています。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1.21)
私たちには神様が与えてくださった良いものがたくさんあります。友人も、家族も、仕事も趣味も、お金も、健康も命もです。ですが、それら全部はいつか手放しお別れする時が来ます。
でも、神様は私たちを絶望させようとしているのではなく、本当に大切なことに目を向けるようにさせておられます。死ぬことは闇に落とされることではなく、用意されている永遠のいのちに飲み込まれていくことです。死ぬことはぼんやりと信じていた天国の希望とか永遠の命が現実のものとなっていくことです。
いつまでも残るものがあると聖書はいいます。
コリント人への手紙第一12章 12節から13節
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。
いつまでも残る信仰とは信じることです。ぼんやり信じていたことが確かなことなり、ぼんやりと希望を持っていたことが現実のものとなります。私たちは何を信じるのか、何に希望を持つのか、と言うと、神様が私を愛し受け入れてくださっていることです。「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」
それは無くならないどころか、死ぬことを通して完全に知ることができます。
地上で私たちは神様を信じ、神様に希望を持っています。そして、この地上を去る時に、私たちははっきりと顔と顔を合わせて神様とお会いすると言います。ぼんやりと信じていた希望や愛が確かなものとなります。これはなくなることがありません。
●愛とはイエス様の犠牲
確かなことで一番大切で優れていることは、愛です。と聖書に書かれています。
聖書が伝える愛とは、神様が私を愛している、という愛です。この世の全てとお別れしても、神様の愛はなくなりません。無くならないどころか、神様とお会いする時にそれは確かだったことが明らかになります。愛の神様とお別れする事はありません。
神様の愛とは、ほんわかした甘いものではなく、命がけの愛、神様の側で犠牲を払って与え続けてくださる愛です。
※妻の入院先にあった十字架の像
20年位前にうちの妻が病院に天使病院に入院したことがありました。当時の天使病院はキリスト教で、全ての病室に十字架ではりつけになっているキリストの像が掲げられていました。
入院しているうち、隣の奥さんが言いました。ねぇ。遠藤さん、キリスト教なんでしょう。あの人さぁ、なんで貼り付けになってんの?
妻は言ったそうです。
あの人はイエス様で、私たち人間にはみんな罪があって、心の中で人を嫌だと思って嫌ったり、妬んだり、傷つけたりしたりしていて、神の裁きと呪いを受けなければならないだけども、その身代わりに神様から捨てられ、呪われるために、天から地上に来てくださった方だよ。私も神様から見れば裁かれなければならないけども、でも、イエス様が私のために神様に裁かれ、呪われる役目をしてくださった、だからもうあなたは神様に裁かれないし、呪われないんだよ。
これがこれが聖書が伝えている愛です。命を捨てて、全てを捨ててくださる愛です。これは決してなくなることがない愛です。神様があなたを愛し、受け入れている、という愛のしるしです。
薫さんの証の作文の中にこうありました。
「分かち合いと祈りにも出るようになり イエス、キリストの十字架が私の罪のためにあることを信じてから、父である神様とイエスキリスト様が以前より、ぐーんと近く感じるようになりました」
神の怒りはなだめられる必要があります。
ヨハネの手紙第一4章9節から10節
神はそのひとり子(イエスキリスト)を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子(イエスキリスト)を遣わされました。ここに愛があるのです。
キリストが犠牲になり、私たちは赦されています。キリストは全てを捨てて、ご自分の命を捨てて愛してくださいました。そして復活して今も生きておられます。この愛はなくなる事はありません。私たちが死ぬとき、地上で大切だった人や物とお別れしても、この神様の愛から離れることはありません。
このイエスキリストの犠牲という愛を通して、私たちは天国に行くことができます
●イエス様の愛は天国への道
また、薫さんの証の先ほどの続きにこうありました。
「天国への道は、イエスキリストを通して直接つながっていて、その道は彼を通してのみ存在する」と書いてあるのを読み 頭がクラクラして 目からウロコが落ちるとはこの事だと、感じました。
薫さんが言っているように、天国への道はイエス様を通してつながります。イエス様が私たちを愛し、薫さんを愛し、ご自分を犠牲にしてくださったことが天国への道です。イエス様はわたしが道そのものだとおっしゃいました。
ヨハネの福音書14章6節
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
イエス様を通してでなければ誰も父(神様)のもとに行く事はできません、とおっしゃいました。天国に行くためにはイエスキリストの愛を受け、それを信じる必要があります。薫さんはイエス様を信じて神様のもとに召されました。
薫さんも後悔することや謝りたいことはあったと思います。聖書は、すべての人に罪があると言います。天国は聖なる国であって、罪や汚れがあるままでは行くことができません。それでもイエス様は罪のある私たちを愛し、身代わりに神の怒りと裁きを受けて、その呪いを終えてくださいました。
イエス様だけが薫さんを完全にきよめ、天国に迎えてくださる方です。イエス様はおっしゃいました。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
どんな人も愛されています。どんな人もきよめられて神様の御もとに行くことができます。その道はイエス様です。この方を信じることです。
この肉体を離れて神のみ下にいる方が良いと聖書は教えています。私たちは希望を持ちながら薫さんとお別れしたいと思います。この希望は薫さんだけに与えられているのではなくて、残された私たちに、全ての人に、ご家族に与えられている希望です。私たちも、皆さんも愛されています。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。でも、神様に愛されていることだけは確かです。それはなくならないどころか、死を通して確かなものとなっていきます。
この愛と希望は今日ここにおられる全ての人に注がれています。別れは悲しいですが、その先にある希望と愛は確かです。
ぜひ、薫さんが「私はイエスキリスト様を信じます」と神様に祈ったように、私たちも、イエスキリストの愛を信じます、この希望を信じます、と祈りましょう。
「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」
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