2025年11月5日水曜日

エレミヤ32.28-42

 エレミヤ32.28-42


旧約聖書には神様が怒りと裁きの箇所がたくさんあります。新約聖書も永遠の火の裁きがあると明言しています。恐ろしい虐殺を神様がなさるところを読むと「これって脅し?」と思われがちで、伝えるのを躊躇したりします。

ところが今日の箇所は神様の怒りと裁きがあるのは「幸せのため」と繰り返します。裁きや怒りや破壊が明言されているのは僕らが神様を恐れて幸せになるためです。



"それゆえ──主はこう言われる──見よ。わたしはこの都を、カルデア人の手と、バビロンの王ネブカドネツァルの手に渡す。彼はこれを攻め取る。

また、この都を攻めているカルデア人が来て、この都に火をつけて焼く。また、人々が屋上でバアルに犠牲を供え、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いで、わたしの怒りを引き起こしたその家々にも火をつけて焼く。

なぜなら、イスラエルの子らとユダの子らは、若いころから、わたしの目に悪であることを行うのみであったからだ。実に、イスラエルの子らは、その手のわざをもってわたしの怒りを引き起こすばかりであった──主のことば──。

この都は、建てられた日から今日まで、わたしの怒りと憤りを引き起こしてきたので、わたしはこれをわたしの顔の前から取り除く。

それは、イスラエルの子らとユダの子らが、すなわち、彼ら自身と、その王、首長、祭司、預言者、またユダの人、エルサレムの住民が、わたしの怒りを引き起こすために行った、すべての悪のゆえである。

彼らはわたしに背を向けて、顔を向けず、わたしがしきりに教えても聞かず、懲らしめを受け入れなかった。

彼らは、わたしの名がつけられている宮に忌まわしいものを置いて、これを汚し、

ベン・ヒノムの谷にバアルの高き所を築き、自分の息子、娘たちに火の中を通らせてモレクに渡した。しかしわたしは、この忌み嫌うべきことを行わせてユダを罪に陥らせようなどと、命じたことも、心に思い浮かべたこともない。」"

エレミヤ書 32章28~35節



エレミヤの時代にイスラエルとユダの人たちが大量に殺され焼かれたのは僕らに無関係ではありません。死後に裁きがあること、そして永遠の苦しみに落とされることがあることは明らかです。



"人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、

火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。"

マタイの福音書 13章41~42節



旧約聖書の時代に何度も人々が神様に殺されたのは、「見せしめ」とあります。(ユダ1.7)それは僕らが神様を恐れるためですが、神様を恐れることはビクビク生きることにはならず、安心と幸せが約束されています。



"その御使いたちと同じように、ソドムやゴモラ、および周辺の町々も、淫行にふけって不自然な肉欲を追い求めたため、永遠の火の刑罰を受けて見せしめにされています。"

ユダの手紙 1章7節



聖書は理想とか思想の本でなく、僕らの人生が幸せになるか、それとも呪われて苦しむかのリアルな選択を迫る神様からのことばです。もちろん神様の願いは僕らが永遠に幸せになることです。悔い改めて神様のもとに戻り、幸せになるように聖書を通して神様は今日も僕らに語っておられます。



"「見よ。わたしは、かつてわたしが怒りと憤りと激怒をもって彼らを散らしたすべての国々から、彼らを集めてこの場所に帰らせ、安らかに住まわせる。

彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。

わたしは、彼らと彼らの後の子孫の幸せのために、わたしをいつも恐れるよう、彼らに一つの心と一つの道を与え、

わたしが彼らから離れず、彼らを幸せにするために、彼らと永遠の契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないように、わたしへの恐れを彼らの心に与える。

わたしは彼らをわたしの喜びとし、彼らを幸せにする。わたしは、真実をもって、心と思いを込めて、彼らをこの地に植える。」

まことに、主はこう言われる。「わたしがこの大きなわざわいのすべてを、この民にもたらしたように、わたしは、今彼らに語っている幸せのすべてを彼らにもたらす。"

エレミヤ書 32章37~42節



今日の箇所は神様が「幸せのため」と何度も繰り返しています。神様の怒りを恐れることは僕らの平安と幸せに直結しています。ビクビクと生きるのでなく、神様に喜ばれ、受け入れられ、安心して生きる幸せです。しかも、永遠にです。だから躊躇せずに神様の怒りと裁きを伝えることができます。神様の願いは「彼らをわたしの喜びとし、彼らを幸せにする」ことです。ハレルヤ!


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