年上の先輩たちは、 口々に「人生は短い」「あっという間に歳をとる」 と言います。 確かに僕らはどんなに栄えたとしても消えていく存在です。
(1-2)
女から生まれた人間は、その齢が短く、心乱されることで満ちています。
花のように咲き出てはしおれ、影のように逃げ去り、とどまることがありません。
ヨブの言う通り、どんなに美しく咲いたような人だとしても全ては消えていきます。しかも残るものは汚れた歩みだけです。(4)ヨブは汚れた自分がきよくなることはムリだと思っているようです。
(4)
きよい物を汚れた物から取り出せたらよいのに。しかし、だれ一人できません。
ヨブは「だれ一人できません」と言いますが、イエス様にはできます。イエス様は汚れた僕らをきよめ、完全な体に変えて復活させてくださいます。ヨブには復活の希望がまだ与えられていませんでした。木は切られても再生するけど、人間は死んだらおしまいだ、と思っているようです。
(7-10)
木には望みがある。たとえ切られても、また芽を出しその若枝は絶えることがない。たとえ、その根が地の中で老い、その根株が土の中で死んでも、水の潤いがあると芽を吹き出し、苗木のように枝を出す。
しかし、人は死ぬと倒れたきりだ。人間は息絶えると、どこにいるのか。
ヨブは神の怒りから完全に守ってくれる場所を願い、そして、神様が覚えていてくださって再び生きることを願ったようです。そして、その願いはイエス様によって実現します。
(13-14)
ああ、あなたが私をよみに隠し、あなたの怒りが過ぎ去るまで私を潜ませ、私のために時を定めて、私を覚えてくださればよいのに。人は死ぬと、また生きるでしょうか。私は苦役の日の限り、待ちます。私の代わりがやって来るまで。
神様は僕らに復活の希望を教えています。畑に植えるタネは死んように見えても新しい芽を出すように、僕らも一度死んで新しい体に変えられます。
(1コリント15:37)
あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。
(1コリント15:42-44)
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
夜が言うように、地上の人生は儚く短いものです。でも、 僕らは復活します。罪のない完全な体に変えられます。だから、「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。
」と言います。(ヨハネ6.27)
どんなに儚く短く、苦しい人生だったとしても希望はあります。僕らは変えられます。復活します。完全にきよく、罪のない、栄光の体に変えられます。なくなるもののためでなく、永遠に価値のあることのために残り人生を使いましょう。大丈夫です。希望はあります。宝は天に、です。
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