2024年10月7日月曜日

ザヤ24章メッセージ 「立派な人が招かれるのではありません」

 イザヤ24章メッセージ

「立派な人が招かれるのではありません」


裁きのメッセージだけど、希望あるし、救いがある、というメッセージです。


●イントロ

この世での身分や立場は意味がなくなります。


イザヤは紀元前700年くらいの預言者で、イスラエルが神様に裁かれる、という預言をしています。そして、実際にその通りになりました。それは紀元前のことですが、同時に、この世界の終わりに起こることも預言しています。

世界の終わりにはもう一度イエス様が地上にきて、神様の裁きがある、と聖書は言っています。


イザヤ書 24章1節

"見よ。主は地を荒れ果てさせ、その面をくつがえして、住民を散らされる。"


神様は、この地上をすべて崩壊させ荒れ果てさせ、くつがえすと聖書は預言しています。この世には終わりがあること、そしてその日には神様のさばきがある、という預言です。その時にこの世の身分とか、経済とか、そういう基準、ランクの違いは全く意味がなくなります


イザヤ書 24章2節

"民は祭司と等しくなり、男奴隷はその主人と、女奴隷はその女主人と、買い手は売り手と、貸し手は借り手と、債権者は債務者と等しくなる。"


偉い人もそうでない人も全く同じように神の裁きに会います。


祭司とか、お金貸してるとか借りてるとか、経営者とか従業員か、そういう役目の違い、立場の違いは地上のほんのひとときだけです。イエスさまがこの世に来てさばきをなさるとき、社会的な身分とか、宗教的な身分もなくなるようです。


この世では人は人をランク付して、あの人はいいとか悪いとか、言います。でも、神様の評価基準は僕らが思うのと全然違います。この世で偉い人、こうきな人と思われた人たちも枯れていきます。


4節

地は嘆き悲しみ、衰える。世界はしおれ、衰える。地の最も高貴な人たちもしおれる。


●神様でなく自分の考えを選んだ結果


(17-18節)

地上の住民よ。恐怖と落とし穴と罠があなたに臨む。

その恐怖の叫びから逃げる者は、その落とし穴に落ち、落とし穴から這い上がる者は、その罠に捕らえられる。天の窓が開かれ、地の基が震えるからだ。


多くの人は絶望に落とされます。なぜでしょう。

神様は愛してくれる、赦してくれるんじゃなかったのでしょうか?

その答えは、5節にあります。


(5)

地はその住民の下で汚されている。彼らが律法を犯して定めを変え、永遠の契約を破ったからである。


祝福と喜びを与える神様の言葉を知っていながら、勝手にルール変更をして、契約を破ったから、です。神様の教えより自分たちの考えの方が偉い、正しいと思っているからです。


神様は殺してはいけないと言っているけど、いろんな理由をつけて殺していくことが正義であり世界の平和のためだ、と言います。嘘も必要だし、淫らなことも悪くない、とルールを変えてしまいました。


神様の教えは僕らを祝福するために与えたものです。盗んではならない、と神様は言われます。もし、その通りになったら、世界から鍵はいらないくなります。誰も盗まないから。パスワードとか、めんどくさいものは消えていきます。想像してください、盗みのない世界を神様は与えようとしておられます。


もし、姦淫してはならない、結婚相手を裏切ってはならない、みんながそうできたら、世界はどこの家庭も平和になります。恋愛結婚で傷つくことはないし、家庭が壊れて悲しむことも、子供たちが傷つくこともありません。想像してください。全く裏切りのない世界です。全ての人が好意に満ち、相手を尊敬して愛しています。これが神様が与えてくださった祝福のための契約です。


神様の教えは僕ら人間を幸せにし祝福するために与えられました。相手を尊重しなさい、尊敬しなしさい、って教えを守ることができたら、本当ラクです。悪口陰口はないし、そもそも相手のことを悪く思わない世界、人と人が、どんな人同士も相手を喜ぶ世界です。これが神様の願いです。


ところが彼らは神様の教えを無視します。その結果、人が人を裏切り合います。


(16節)

ああ、悲しい。裏切り者が裏切った。裏切り者が裏切り、裏切った。


人が愛し合い、尊重しあい、祝福されるための神様の教えは、まずはイスラエル人に与えられました。


その次にイスラエル人以外に広がっていき、今日本人の僕らも聖書の言葉を聞いています。

神様は愛するために、愛するゆえに教え、私の民、私の宝、あなたを祝福する、と言ってくださっています。愛と祝福のための契約と教えです。でも、それを知っていながら無視し、自分の考えの方を優先します。それが5節の意味です。


ます。「彼らが律法を犯して定めを変え、永遠の契約を破ったからである。」神様の祝福の約束を無視することは、自分から祝福いらない、平和はいらない、神様いらない、と選んでいるようです。


お望み通り彼らは神様から離れ、苦しんでいきます。神様から離れるなら祝福はないこと、その先は呪いと恐怖しか残っていないことを彼らは知っていながら、自分からお望み通りに呪いの道、破滅の道を進みました。


イザヤ書 24章6節

それゆえ、のろいは地を食い尽くし、その地の住民は罰を受ける。


自分で選んだ通り、望み通りになります。

神様から離れる人、今も神様の言葉を聞いても嫌がる人います。それは自由だし、お望み通り永遠に神様から離れることができます。

死後の裁きあうし、神様の国に入ることはできないです。願った通りになります。永遠に神様から離れ、愛も喜びもない世界に行きます。


彼らは滅んでいきます。でも、全滅ではありません。僅かな人が残されます。6の後半「わずかな者だけが残される。」


  • ●わずかな者とは


どんな人が残されるのか、助かるのか、イエス様はおっしゃいました。


マタイの福音書 7章13-14

"狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。

いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。"


消えていくこの世のもうけ、 メンツ、快適さ、肉欲、暮らしむき、そういうことばかり求めて、広くて大きな滅びへの道に向かっている人が多いとイエス様は言われます。

どの食材がおいしいかどの酒がおいしいか、どの音楽が楽しいか、そればかりを求めた当時の様子が描かれています。その先は絶望です。


イザヤ書 24章7~9節

"新しいぶどう酒は嘆き悲しみ、ぶどうの木はしおれ、心に喜びのある者もみな、うめく。

陽気なタンバリンの音はやみ、はしゃぐ者たちの騒ぎも消え、陽気な竪琴の音もやむ。

歌いながらぶどう酒を飲むこともなく、強い酒も、飲む者には苦い。"


全てが消え去っていくけども、でも、少しの人たちは残されていて、彼らはこの世界が滅んでも残され、喜びが楽しみの歌声が続いていると聖書はいいます


イザヤ書 24章13~16節

"まことに、大地の真ん中で、諸国の民の間で、オリーブを打ち落とすようなことが、ぶどうの収穫の後に取り残しの実を集めるようなことが起こる。

彼らは声をあげて喜び歌い、西の方から主の威光をたたえて叫ぶ。

それゆえ、東の国々で主をあがめよ。西の島々で、イスラエルの神、主の御名を。

地の果てから、私たちは、「正しい方に誉れあれ」というほめ歌を聞く。


まるで、収穫が終わった後に、全部なくなった後に少し残っている実のようです。

その人たちのなくならない喜びの歌はこの世の歌と違って、14節を見ると主の威光をたたえて歌っています。


●ハイデルベルク信仰問答


質問

生きているものと死んでいるものをさばくためにキリストが再び来られることはあなたにとってどのような慰めですか。


イエス様はこの地上にもう一度来ます。それは恐怖ではなく慰めです。どんな慰めですか?という質問です。


答え

(…略…)すでに私たちのために神の裁きに服し、すべての呪いを私から取り去ってくださった方を待ち望むことができます。


私たちも滅ぼされる罪人でした。

 だけど、イエス様が、すでに、先に私の裁きを既に受けて、十字架で血だらけになって死んでくださいました。良い知らせです。だから、裁きがあっても、イエス様がもう一度この世界の終わりにきても、希望があります。


ヨハネ 5:24

わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。


神様は罪人の滅びを望んでいるのではなく、 そんな罪ある私たちが救われることを望んでおられます。


2ペテロ 3:9 

あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。


悔い改め、と言うのは、方向転換です。自分が滅びに向かっていることを認め、神様を無視してきたことを認めることです。そして、向きを変えて、イエス様がその裁きを身代わりに受けてくれたことを信じることです。


神様の祝福の教えより、自分の考えを上にして、ルールを勝手に変えたし、破ったし、裁かれる罪人なのに、そんな者だったのにイエス様が私たちのために死んでくださったことによってその呪いが免除されて、ただあわれんでもらって、希望を持って救われるものになったそれだけです。


クリスチャンとはイエス様が神の裁きを先に身代わりに受けてくれて、血だらけになって、 あなたの罪は赦された、と言ってくださった、それを信じる人たちです


●二つのタイプ


僕らが神様の怒りや裁きがあるぞ、って聞いた時に、次の二つのタイプの人に分かれます。


①イエス様の赦しを信じてその福音により頼むタイプ


②自分が良くやってる。自分はがんばってるとアピールするタイプ


キリスト教を学校の勉強みたいにいい点とればいいんでしょって思っている人がたまにいるみたいです。それが誤解です。


②は自分は正しいし、ちゃんと礼拝もきてるし、いい人だし、神様、認めてくれるよね、というタイプです。あの人より私は頑張ってるでしょ。

自分の評価を求めるタイプの人です。

ところがイエス様は自分を高くする人は低くされる、言います。そして自分を低くするものは高くされると聖書はいいます。神様を愛することも隣人を愛することも出来てない、と自覚する人こそ、イエス様の赦しがありがたくて、感謝します。 


隣人を愛してますか?と神様に聞かれたとき、恥ずかしくて顔を上げれない人。そういう人はイエス様の赦しにすがる他ないし、 本気で赦しを求めます。 だから、イエス様の説教の一番最初のことば。 「心の貧しい者は幸いです。 天のみくにはその人のものだからです」


ある方のお母様の最後の祈り、いまも思い出します。子供の時にそのお母さんは家を出てきました。その方は、新興宗教の先生をやっていたそうです。

もう長くない、と言われて一緒に病院に行きました。イエス様の福音を伝え、お母さん、赦されないますよ、信じる祈りをしませんか、とお薦めしました。


「神様 はずかしいです。 はずかしいです。 あっちの宗教こっちの宗教と言って、私、知ってたの。キリスト様を知ってたの。はずかしいです。 この子を育てなかったこと、はずかしいです」 まさに、 イエス様はそのような人を愛し、 赦し、受け入れ、 神様の子ども、天の御国の祝福に招いてくださいます。


あるおじさんの病室での最後の祈りを思い出します。叫ぶように、泣き叫ぶように言いました。「神様、こんな俺を許してください」でした。

救いは罪人のものです。 


●見下されていた異邦人


裁きの日に、神様を賛美している人がいます。よく読むと、エルサレムに住んで、宗教的にちゃんとやってる人ではありません。


イザヤ書 24章14~15節

"彼らは声をあげて喜び歌い、西の方から主の威光をたたえて叫ぶ。

それゆえ、東の国々で主をあがめよ。西の島々で、イスラエルの神、主の御名を。"


西の方からと書いてあります。

この当時、神様の神殿はエルサレムにありました。そこで宗教的にちゃんとやってる人たちじゃない。15節、 東の国々、ユダヤ人からみたら、 あの人たちは、汚れた人たちだ、 と思われていた異邦人。あの人たちはダメだろう、と見下されていた外人が救われ、喜んでいる。 それが神様の愛です。


それが、神様の福音です。 救いです。

神様の救いと関係ないと思われていた人たち。 今風にいうなら、教会でまじめにやってますというでなく、教会から遠くはなれた所で、それでもイエス様にすがるしかない、と求めたひとたち。


いつの間にか、 教会の中にもあの人はちゃんと奉仕する人、 あの人はしない人、 あの人はちゃんと聖書を学んでいる人、あの人は学んでない人。 そういうランクつけがあるなら、

それで救いが決まるのではない。むしろ、私はちゃんとやってます、という人は危ないです。牧師は特に威張りやすくて危ないです。 

最初に読んだ立場の違いは何の意味もなくなります。 


もちろん、聖書学びましょうと聖書が教えているし、 礼拝は大切です。 礼拝に出席しましょう。 それは主に喜ばれることです。教会が聖書を互いに教えあう交わりになるように、互いに祈り合う祈りの群れとなっていくようにいつもおすすめします。

ですが、一方で、それによって 「聖書を学んでいる人が偉い人」」 「祈り会に出てる人がえらいひと」という価値観やランク付けが出来上がるなら、聖書の教えとは違います。


ただ、聖書を学んで行くことは、自分がいかに罪人でありイエス様の憐れみによってだけ救われるということを知ってへりくだって感謝する人になることです。


聖書を学んで、 私は偉い人になるなら、 本当には学んでいない。 礼拝する、 というのは、威張ることではなく、ひれ伏すこと。 ただ、イエス様の十字架の処刑しかすがることがありません、というのが礼拝です。


救いはただ、イエス様のあわれみ。 愛。イエス様にすがる罪人だけが救われます。 


聖書を学び、 祈りをするその結果、 あの人がどうだ、こうだ、ということは消えて行き、 ただ、 イエス様の前に滅ぼされる罪人にすぎません。 私は罪人。 あの人も罪人。 ただ、 イエス様の赦しに感謝。 それしかありません。


わたしは何をしたかにをした、というのは消えてきます。 わたしは祭司だ、 社長だ、 奴隷だ、ということも消えていきます。 ただ、 借金があるとか、 お金をもってるとか、そういうことも消えていきます。 ただ、 イエス様にすがることだけが永遠の救いです。


天に招かれる人は自分は正しいという人ではない。自分を正しいとして高ぶる人は低れ、 自分の罪を知る人は招かれます。


感謝しましょう。信じましょう。イエス様に方向転換しましょう。


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