本当に僕らの全てを理解し肯定してくれる人は人間の中にはいません。でもイエス様は違います。僕たちの裏も表も知った上で、欠点を知りつつ、罪があるにも関わらず味方になってくださり、今日も私たちの無罪を主張してくださいます。ヨブは友人達に誤解され続け、苦しめられ続けました。 でも、ヨブは自分の証人は天にいるといいます。この方はイエスキリストです。
(16章19-21)
今でも、天には私の証人がおられます。私の保証人が、高い所に。
私の友は私を嘲る者たち。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。
その方が、人のために神にとりなしてくださいますように。人の子がその友のためにするように。
ヨブはひたすら理解されず、苦しみの中死に向かっていきます。ところが、天では無罪を保証してくれる人がいることに希望を持っています。これはイエス様の事です。
(17章1-3節)
私の霊は乱れ、私の日は尽き、私には墓場があるだけです。
実に、嘲る者たちが私とともにいます。私の目は彼らの敵意の中で夜を過ごします。どうか、私を保証してくれる人をあなたのそばに置いてください。ほかにだれか誓ってくれる人がいるでしょうか。
ヨブは何も悪いことしていないのに、笑いものとされ、 唾をかけられるものとなりました。その姿はまるでイエス様です。
(6-7)
神は私を人々の笑いものとされ、私は顔に唾される者となった。
私の目は苦悶でかすみ、私のからだはどこも影のようだ。
イエス様が人として生まれたのは、私たちと同じ存在になるためです。弱くて苦しむ人間、そして一度死ななければならない孤独と苦しみに同じようになるためです。
(へブル人への手紙4章15節)
私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
イエス様は私たちの弱さを理解するために、あえて肉体を持って人としてお生まれになり、人に受け入れられない家畜小屋で生まれ、誰よりも弱く貧しい人たちと連帯されました。
上から見ているだけでなく、僕らと一緒になってその苦しみを背負い、死んでくださる方です。殺される側、裁かれる側となってくださいました。
イエス様は僕らの苦しみを知った上で今日も僕らのために祈り、無罪を保証してくださっています。イエス様が僕らを「義」としてくださいます。誰がなんと言おうと僕らは無罪です。
(ローマ8:33-34)
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
人から傷つけられても、攻撃されても、神様は僕らを今日も保証してくださっています。僕らは無罪です。イエス様が保証人です。大丈夫です!
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