2022年12月23日金曜日

ヨブ1章

 僕らは悪いことが起こると「きっとあのことの罰だ」と原因を探しがちです。僕らは「良いことをしたら祝福されるけど、悪いことをしたらバチが当たる」と言う因果応報の考えがあります。…ところが、ヨブ記を読むと、そのような考えが排除されていきます。ヨブは完全に潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた人でした。彼は自分の心の奥だけでなく、息子たちの分までいつも罪を赦しを願いきよめを祈っていました。神様も彼のように「悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。」と言い切ります。(8)


(1節)

ウツの地に、その名をヨブという人がいた。この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた。


(5節)

朝早く起きて、彼ら一人ひとりのために、それぞれの全焼のささげ物を献げたのである。ヨブは、「もしかすると、息子たちが罪に陥って、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。


(8節)

主はサタンに言われた。「おまえは、わたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。」


そのような素晴らしいヨブが神様の許可によって全てを失っていきます。ヨブは多くの財産を持っていました。そして「この人は東の人々の中で一番の有力者」でした。(3)しかし彼はそれを全て失います。財産は奪われ、しもべたちは殺されて行きます。そして愛する子どもたち全員が死んで行きます。(14-19節)でも、そのような時にこそ神様にだけ主権があり、神様だけが全てを与えたり取ったりする主権者であることが明白になります。ヨブは悲しみ、嘆きつつその信仰を告白して言います。


(20-21節)

このとき、ヨブは立ち上がって上着を引き裂き、頭を剃り、地にひれ伏して礼拝し、

そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」


ヨブは神様が良いことをしてくれるから賛美しているのではありませんでした。財産を守ってくれるから礼拝しているのでもありませんでした。全てが主の主権でした。与えられることも、失うことも神様の主権の中です。全てを失った時にこそ、栄光と主権が神様にだけあることがはっきりします。


僕らは持ち物とか、人からの評価とか、自分が成し遂げた成果とかを重視しがちです。でも、それらを失ったこそ本当の姿がはっきりします。礼拝とはひれ伏すことです自分はチリにすぎないことを告白し現し、ひれ伏すのが礼拝です何かをなしたことで価値があるのではなく、僕らの行いの良し悪しで神様の栄光や力が変わるのではありません。失うか、手に入れるかで神様の栄光が変わるのでもありません。神様が全てだから僕らは礼拝したたえます。全ては神様から出たものです。ヨブはこれから、さらにひどい災いを受けます。それでも、神様の栄光は変わりません。僕らも言いましょう。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」


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