困っている人に援助することも、神様のために献金することも、それは相手に連帯することです。パウロは宣教に連帯してお金や物を送ってくれた人たちのことをすごく喜んで書いています。
(10-11節)
私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきたことを、私は主にあって大いに喜んでいます。あなたがたは案じてくれていたのですが、それを示す機会がなかったのです。
乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。
(14節)
それにしても、あなたがたは、よく私と苦難を分け合ってくれました。
宣教は宣教師だけがすることではありません。キリストのための苦しみも宣教師だけがすることでなく、教会の一人一人が連帯することです。教会はキリストの体であり、苦しみも分け合う共同体です。パウロは「あなたがたは、よく私と苦難を分け合ってくれました。」と書いています。しかもパウロは「お金をください」とお願いしたことはありません。聖書が伝えているのは、神様のために犠牲を払って献金や物をささげることによって、霊的に祝福されることです。
(17-18節)
私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。
私はすべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。
ささげものをすると、まるで口座残高が増えるように霊的な実が増えます。僕らの持ち物が減るどころか、むしろそれは増え、必要は満たされ、感謝も惜しみない愛も増えていくと聖書は言います。
(19節)
また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。
(2コリント 9:10-11)
蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。
献金はキリストと連帯し、宣教の働きに連帯することです。お金の苦しみを分け合うことは痛みを伴うように見えます。でも、実際はそこにこそ喜びと感謝があり、霊的な実があります。お金をささげることは祝福しかありません。主の前には良いことしかありません。この喜びを全ての人が体験しますように!
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