2023年1月19日木曜日

レビ14章

 以下のようなシンプルな話をよく聞きます。

「信じる人は赦される」

「信じる人は罪をきよめられる」

「信じる人は義(無罪)にされる」

「信じる人は聖霊が与えられる」

どれもその通りに聖書が教えていることです。が、「なんでそんなに簡単に言えるの?」と思うこともあるので、もっと丁寧な説明も必要です。もともと、「こうすれば赦される、こうすれば義とされる」という儀式や教えが丁寧に書かれているのが旧約聖書の律法ですそしてイエス様はその律法に基づいて、それらの律法をすべて実現する形で終えてくださいました。律法を知るとイエス様の恵みと愛もよくわかります。


(マタイ5:17)

わたし(イエス様)が来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就(実現)するために来たのです


(ローマ10:4)

キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです


(ヘブル10:1)

律法には、後に来るすばらしいもの(イエス様のこと)の影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです


(ヘブル10:8-10)

「あなた(神様)は、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした。」と言い、また、「さあ、わたし(イエス様)はあなた(神様)のみこころを行なうために来ました。」と言われたのです。後者(イエス様)が立てられるために、前者(律法)が廃止されるのです。このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです


今日の箇所の律法はツァラアト(重い皮膚病)の人が「きよい人」と宣言されるための律法ですこれらは全部イエス様が僕らに与えてくださる恵みを現しています


まず、きよめられる人は2羽の小鳥を用意します。そして1羽は殺され、1羽は自由にされ放たれます。自由にされた鳥は病気からも罪からもきよめられた人を表しています。殺された鳥はイエス様が罪や汚れを引き受けて死んでくださったイエス様を表しています。


(1-7節)

主はモーセにこう告げられた。

「ツァラアトに冒された者がきよめられるときのおしえは、次のとおりである。(…中略…)

祭司はそのきよめられる者のために、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の枝と緋色の撚り糸とヒソプを取り寄せるように命じる。祭司は、その小鳥のうちの一羽を、新鮮な水を入れた土の器の上で殺すように命じる。そして、生きている小鳥を、杉の枝と緋色の撚り糸とヒソプとともに取り、それらをその生きている小鳥と一緒に、新鮮な水の上で殺された小鳥の血の中に浸す。それを、ツァラアトからきよめられる者の上に七度かけ、彼をきよいと宣言し、さらにその生きている小鳥を野に放す。


「血」は「死」を表します。そして殺された鳥の血と水はきよめられる人に振りかけられます。ヒソプと杉の枝と糸は振りかけるための「はけ」のような役目をしたようです。繰り返しますが、こ律法による儀式はイエス様を表しています。


(ヘブル9:22)

それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです


(1ヨハネ1:7)

御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。


(1ペテロ3:18)

キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、(…中略…)私たちを神のみもとに導くためでした。


律法は小鳥を殺し、その血と水が混じったものをきよめられる人に振りかけるようにと教えています。血と水が混じったものは「イエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。」と書かれています。(ヨハネ19:34)これはイエス様が十字架で殺された血によってきよめられることを表しています。そして、きよめられた人(この当時は病気から解放され自由になった人)は服を洗い、体毛を全部(髪の毛も眉毛も全部)剃り落とします。


(8-9節)

きよめられる者は自分の衣服を洗い、その毛をみな剃り落とし、水を浴びる。こうしてその人はきよくなる。その後で、宿営に入ることができる。しかし、七日間は自分の天幕の外にとどまる。

七日目になって、彼は髪の毛、口ひげ、眉毛など自分のすべての毛を剃り落とす。すべての毛を剃り落とし、自分の衣服を洗い、からだに水を浴びる。こうしてその人はきよくなる。


服を洗い、体毛を剃ることは「自分は全部新しくなった」ことを表しています。まるで新しい服を着るかのように、汚れた過去を捨て新しい人生が始まることを表しています。


(コロサイ3:9-10)

あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです


きよめられた人は神様にささげものをして、ささげものの血を右の耳たぶ、右親指、右足の親指に塗られます。


(14節)

祭司は代償のささげ物の血を取り、それを、きよめられる者の右の耳たぶと右手の親指と右足の親指に塗る。


「血」はイエス様の犠牲の死を表し、それを塗られることは「あなたの耳はきよめられた、あなたの手の行いはきよめられ、あなたの足の歩みはきよめられた」ことを表しています。そのように信じる僕らの耳も行いも歩みもきよめられています。この時さらに、血が塗られた右耳、右親指、右足の親指、さらにその人の頭に「油」が塗られます。


(15-18節)

祭司は油一ログからいくらかを取って、自分の左の手のひらに注ぎ、右の指を左の手のひらの油に浸し、その指で油を主の前に七度振りまく。祭司はその手のひらの中の残りの油を、きよめられる者の右の耳たぶと右手の親指と右足の親指に、すなわち先の代償のささげ物の血の上に付ける。祭司はその手のひらの中の残りの油を、きよめられる者の頭に塗る。こうして祭司は主の前でその人のために宥めを行う。


聖書は「油」を聖霊の象徴として書いています。信じる人は赦されきよめられるだけで終わりません。必ず聖霊(神様ご自身の霊)が与えられます。僕らの耳は聖霊の耳になり、僕らの手の行いは聖霊の行いになり、僕らの歩みは聖霊の歩みになります。頭に油が塗られたように、僕らは聖霊の人になります。それによって僕らの人生が神様の願いを表すものに変えられて行きます。


律法はイエス様の恵みを表しています。僕らは赦され、きよめられました。古くて汚れた自分はきよめられました。それだけでなく、僕らの体は聖霊が住む体とされました。僕らは新しくされています。


「信じる人は赦される」

「信じる人は罪をきよめられる」

「信じる人は義(無罪)にされる」

「信じる人は聖霊が与えられる」


このシンプルなメッセージの背後には神様の大きな犠牲と恵みがあります。

この大きな恵みを信じること人はきよめられます。

イエス様の時代もツァラアトの人がいました。イエス様の願いはきよくなることです。僕らもきよくされます。それが神様の願いです


(マタイ8:2-3)

すると、ひとりのツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏して、「主よ。お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。


イエス様は全てを捨てて血を流し、僕らをきよめてくださいました。その大きさを知るほどに僕らはひれ伏して感謝と賛美を捧げます。僕らの手柄はありません。ただ栄光と賛美が主にありますように!


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