心配や落ち込みは放っておくとまとわりついてきます。そんな僕らに聖書は何度も喜びなさい、感謝しなさい、と繰り返します。僕らは神様に愛される、宝物です。僕らのことを「冠」とさえ言ってくださる神様です。思うよりずっと愛されています。
(1)
ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。
(4)
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
心配は尽きません。また敵である悪魔も僕らの心の目を曇らせ、希望や平和を見えなくさせます。僕らは苦しみに会いますが、その中でも神様の素晴らしさは輝いています。神様に感謝し、どんな心配も願いもこと細かに神様に報告しなさいと聖書は教えます。会社で良く言われるのが「ほうれんそう」です。どんなことでも上司に報告(ほう)、連絡(れん)、相談(そう)です。神様に報告、連絡、相談しするなら必ず平安が与えられます。これは神様の約束です。
(6-7)
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
苦しみの中で神様に感謝して全部の出来事を「ほうれんそう」している人には平安と喜びがあります。苦しいはずなのに寛容さが与えられます。それこそが福音です。神様に感謝し愛されていることがわかると、人にも寛容になれます。それをまず自分が体感して、他の人にも知らせなさい、と聖書は言います。
(5)
あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。
ピリピ教会の中にはリーダー同士の不一致があったようです。問題は意見の違いではなく、神様への感謝と喜びが減っていることです。感謝と喜びが減ると平安も寛容さも減っていきます。神様との愛と感謝の関係は全ての人間関係を癒します。どちらが正しいか議論するのではなく、不完全な僕らを愛し赦してくださっている神様への感謝と喜びこそが解決です。
(2-4)
ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。
そうです、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。この人たちは、いのちの書に名が記されているクレメンスやそのほかの私の同労者たちとともに、福音のために私と一緒に戦ったのです。
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
今日も僕らが神様への感謝と喜び、そして「ほうれんそう」の中で与えられる平安で満たされますように!ハレルヤ!
0 件のコメント:
コメントを投稿