僕らは過去のことをくよくよと考えたり、昔の思い出にすがりがちですが、聖書は振り返らないで前を向くようにと教えています。クリスチャンは毎日新しく変えられ続けています。その先のゴールは天で神様からいただく栄光です。
まるでスポーツ選手が賞を目指すように、神様からの栄光をいただくことだけを目指すようにと聖書はすすめています。
(12-14節)
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。
パウロは自慢の過去がありました。頑張って律法を守って神様に認められようとしてきたし、生まれも育ちも良かった、という自慢です。でも、そんなことゴミだと言っています。(8節)僕らも「あの時は良かった」とか、クリスチャンになった後の思い出を「あの時は熱心に伝道した、あの時は熱心に祈った、あのときの仲間は良かった」と言って過去に戻りたがることがあります。神様が良くしてくださったことを忘れずに感謝することは素晴らしいことですが、(詩篇103篇)でも、今の場所がスタートです。ここからさらに神様に喜ばれるゴールを目指すことが聖書の教えです。
(15-16節)
ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。
ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。
僕らはいつも次の恵みやステップが用意されています。苦しみもあるけど、人生の先には神様の希望と恵みと祝福に満ちています。苦しみの中でも神様に向かって目をあげて歩んでいれば大丈夫です。過去のことでくよくよしなくても、過去の実績にすがる必要もありません。
パウロは「私をみならいなさい」と言います。それは、過去を捨て、自分の栄光を捨て、十字架で人のために苦しんでくださるキリストにならう私に倣いなさい、という意味です。つまり十字架のキリストに倣いなさい、ということです。自分を捨てる人こそが高められ、栄光と冠が与えられます。逆にこの世の富や欲望や名誉を求める人のゴールは滅びです。
(17-19節)
兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。
この世の評価や栄光は消えていきます。栄光と賞賛は天にあります。僕らがいるべきところは天です。今はまだまだ罪に悩み、不自由ですが、でも、将来必ず栄光に輝く人に変えられることが約束されています。
(20-21節)
しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。
ゴールを見上げましょう。栄光が用意されています。目標は天の栄光です。この世のものは消えていきます。僕らの心が希望と栄光への期待で満ちますように。ハレルヤ!
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