2023年1月19日木曜日

ピリピ3.1-11

 

新型ウイルスの感染を防ぐため、僕らはうがいや手洗いをしマスクをして守ろうとします。同じように、悪魔はあらゆる方法で心に悪意、高ぶり、敵意、盗み、淫行、党派心などを感染させようとします。その予防と安全の最大の方法は、主にあって喜ぶことです僕らがイエス様に感謝し、イエス様の恵みを喜ぶことは「あなたがたの安全のため」だと聖書は言います。「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさ」(8節)を喜ぶことは安全です


(1)

最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります。


「主にあって喜ぶ」ことはただおもしろいことをゲラゲラ笑うことでなく、主が良くしてくださったことを数え上げ、その恵みと大きさを感謝して喜ぶことです自分が何かをした自慢でなく、神様が良くしてくださったことの喜びです


それと正反対に、警戒すべきことは喜びと感謝のない律法主義です。パウロは「イエス様が十字架で処刑を受けてくださって、あなたがたは赦され、きよめられた!」と感謝と喜びを伝え、それ信じて喜ぶ人たちもどの町でも増えてきました。ところが、その後を追いかけるように「信じただけではいけない。割礼男子は性器の皮を切ってこの人は神様のもの、という印にすること)を受け、旧約聖書の律法をキッチリ守らなければ天国に行けない」と教えて新しいクリスチャンの喜びをつぶして歩く人たちがいました。聖書は彼らのことを「犬ども」「悪い働き人たち」と読んでいます。犬はこの当時は蔑称でした。


(2-3節)

犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです


神様の聖霊をいただいて、喜んでいる人たちこそが神様のものですその人たちはキリストだけを自慢し喜びます。表面的な儀式や形を守ることではありません。


律法主義者たちは自分の行いとか、家柄とか学歴とか熱心さを自慢していました。パウロも昔は同じように行いや儀式を自慢する律法主義者だったので、自慢なら自分もできる、と言います。でもキリストの素晴らしさを知った今は、過去のそのような自慢はみんなゴミだと言い切ります。


(4-8節)

ただし、私には、肉においても頼れるところがあります。ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です

私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人(厳格に律法を守るグループ)その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。

しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。


パウロは「なんと詰まらないことを自慢していたのだろう。」「それらは全部ゴミだ」と思うようになりました。それらは、神様のために何の役にも立たないし、逆に喜びも感謝も失わせるものばかりです


敵は僕らを感染させようと狙っています。喜びを感謝を失わせ、こうしなければ、ああしなければ、という形を作らせ、うまく行けば自慢させ、神様の恵みとその喜びを消そうとします。感染予防は神様の恵みを喜ぶことです。主を喜ぶことは「あなたがたの安全のため」です。今日も感謝しましょう。主を喜びましょう。


(1テサ 5:16-18)

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです

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