2025年2月6日木曜日

レビ2章

 レビ2章


聖書に聖なる〇〇と書いてあったら、それは神様の〇〇と言う意味です。

神様に穀物のささげものをするように律法にありますが、神様にささげたるための穀物やパンは、「最も聖なるもの」あります。(3) 一番大事な神様のもの!という雰囲気です。なんと驚いたことに、その最も大切な聖なるパンは祭司たちにも与えられ、彼らは一緒に食べます。




"人が主に穀物のささげ物を献げるとき、そのささげ物は小麦粉でなければならない。その上に油を注ぎ、その上に乳香を添え、

それを祭司であるアロンの子らのところに持って行く。祭司はその中から、ひとつかみの小麦粉と油と乳香すべてを覚えの分として取り出し、祭壇の上で焼いて煙にする。これは主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。

その穀物のささげ物の残りはアロンとその子らのものとなる。それは主への食物のささげ物のうちの、最も聖なるものである。"

レビ記 2章1~3節



神様の聖なる食物が祭司たちの食物となりました。主にささげられた聖なるパンが祭司たちの口に入り、祭司たちの体の一部となります。「主への食物のささげ物のうちから穀物のささげ物の残りを取り、種なしパンとして祭壇のそばで食べなさい。それは最も聖なるものだからである。それを聖なる所で食べなさい。」(レビ10.12-13)



一緒に同じものを食べることはいのちを共有することです。

イエス様は頻繁に人々と一緒に食事をしました。同じ子羊の肉を一緒に食べると、相手に栄養を与えているその子羊の肉は、自分にも栄養を与えています。相手の体の一部になりつつある子羊の肉は、自分の体の一部になりつつあります。あなたのいのちと、わたしの命の源が同じで、同じ肉を同じテーブルで同じ器に参加することは「私たちはお互いに一つ」であることを表していました。だから、ユダヤ人たちは異邦人や罪人と食事を一緒にすることを警戒していました。食事はいのちの一体性を表すからです。


主への最も聖なるささげものであるパンを祭司たちは一緒に食べました。それは、神様といのちを共有することであり、やがてイエス様がいのちのパンとしてきてくださり、イエス様の御霊が僕らの体の中に住んでくださることを表しています。僕らの体が聖なる住まいとなることを表しています。イエス様は「わたしがいのちのパンです。」とおっしゃいます。(ヨハネ 6:35)



(ルカ22章19節)

それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」



最も聖なるパンのささげものはイエス様を示すかのようです。祭司だけでなく、イエス様のいのちは僕らにも与えられています。イエス様が僕らの中に住んでおられます。イエス様のいのちは僕らのいのちとなりました。もう僕らの体ではなくイエス様の体です。主からいただいているいのちです。だから、悪意と不正のパン種を用いたりしないで(1コリント5.8)きよい「神の御住まい」(エペソ2.22)として今日も用いていただきましょう。最も聖なるいのちが僕らの体に心に溢れています。ハレルヤ!



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