2024年6月12日水曜日

ガラテヤ51-12

 ガラテヤ51-12


ガラテヤ教会の中にアツい人がいて、割礼(性器の包皮を切り取る儀式)をしなければならないと教えていました。「割礼は旧約聖書によって明らかに命じられています!」「神の民である大事なしるしです!」きっと力説したと思います。ところがパウロはそれに反対して説明します。



(2節から4節)

2よく聞いてください。私パウロがあなたがたに言います。もしあなたがたが割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに、何の益ももたらさないことになります。

3割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。

4律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。



日本の教会で「割礼すべし」と教える人はいなくても、キリストの十字架の赦しや恵みと関係のない話を熱心にこうすべき、あぁすべき、と熱心にになる人はいます。「あの人はやってない」「私はちゃんとしているのに、あの人のせいで…」十字架で罪を背負い苦しんでくださったイエス様をすっかり忘れて、まるで自分が正しい人かのようにさばき合い、キズつけあうのは恥ずかしながらよくある話です。最初は密かにつぶやき、次に本人のいないところでヒソヒソと話し、そのうち訴え合います。「わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませるのです。」(9)「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。」(コリント人への手紙 第一6章7節)

これはキリストの福音ではありません。「どちらが正しいか」は言い換えると「どちらが義されているか」です。義はイエス様の十字架の恵みによってだけ与えられるものです。



(4節から8節)

4律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。

5私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。

6キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。

7あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたの邪魔をして、真理に従わないようにさせたのですか。

8そのような説得は、あなたがたを召された方から出たものではありません。



僕らが自分の正しさを主張し、十字架による罪人への憐れみを忘れているならガラテヤ教会と全く同じです。「わたしは正しい」は御霊から出たものではありません。御霊は僕らの罪を教えて間違いを認めさせてくださるからです。(ヨハネ16.8)義は自分の発言や行いによって獲得するものではありません。イエスキリストの十字架の福音を信じることによって与えられるものです。「私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んで」います。(5)


今日もわずかなパン種があります。今日も自分の行いを誇り、他の人をさばきます。今日も「私がこうした、ああした、あの人はこうすべき」と行いのルールに戻りたがります。もし律法や行いによって義とされるなら、「キリストはあなたがたに、何の益ももたらさないことになります。」(2)


自分に聞いてみましょう。イエス様ではなく、自分を誇る小さな種があるかどうか。それは大きくなって自分を縛り、そこから抜け出せなくなってしまいます。



(1)

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。



罪がないと言うなら嘘つきです。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」(1ヨハネ1.8)イエス様の十字架の犠牲を忘れていたことを認めましょう。キリストの福音と関係のないことを強調していたことを認めましょう。神様ごめんなさい。イエス・キリストの十字架の福音に戻ります。イエス様の十字架以外に誇るものはありません。(ガラテヤ6.14)アーメン。




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