ガラテヤ4.21-5.1
きっと神様は僕が良い事をしたり、賛美したり、献金したり、親切にしたら祝福してくれるだろう、と思いがちです。「神様、ほらちゃんとやってますよー。祝福してくださいよ。」と思ったりします。ですが、そこには自分の態度で神様をコントロールできる、とという傲慢さがあります。たまに上手に先生を転がす女子高生とか、お客さんを上手にコントロールできる接客業の人がいますが、それと同じです。ほら、こうしてあげますからだから動いてくださいよ、という気持ちです。あるパリサイ人はこう祈りました。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』(ルカ18.12)ところがこの人は神様に義と認められなかった、と聖書はいいます。(ルカ18.14)
聖書は自分の肉のやり方や知恵で祝福を作ろうとする人を「奴隷」と表現します。アブラハムも一度、祝福の子どもを「作ろう」とし、女奴隷に子どもを産ませました。聖書はそれを「奴隷の子」といいます。
(22節から23節)
22アブラハムには二人の息子がいて、一人は女奴隷から、一人は自由の女から生まれた、と書かれています。
23女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由の女の子は約束によって生まれました。
反対に、神様の約束によってだけ生まれた子どものことを聖書は「自由の子」といいます。神様の約束は人の力とか知恵と関係なく実現します。アブラハムとサラは年老いてもう妊娠出産はムリ、という時になって子どもが与えられました。それは人間の力によらず、ただ神様の約束ゆえに祝福が実現するためです。神様のご計画は、人間の知恵や力を遥かに超えています。神様の約束は必ず実現します。それを信じて待ち望むことが信仰です。
僕らが神様の子どもになったのは、上手にしたからでも頑張ったからでもありません。
(28節)
兄弟たち、あなたがたはイサクのように約束の子どもです。
僕らの行いが不足だからと言って神様が祝福を控えているのではありません。ただ、イエス様によって赦され、愛され、恵まれ、祝福されています。それは決して無くならない福音の約束です。昔のクセで、つい、こうでなければ、ああでなければ、と言いがちです。そして、できない人のことを見下しがちです。頑張ってる人やできる人が正しくて、そうでない人を非難するのは今も昔も同じみたいです。
(29)
けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりになっています。
信じた最初の頃は喜んでいたんだけど、何年か経つと昔のクセで「こうでなければ」と自分を縛り、できない人、やらない人を迫害したりするのもよくある話です。聖書はそれを「あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。」といいます。(3.3)反対に、そのような肉の奴隷の子を追い出せとさえいいます。
(30節から31節)
30しかし、聖書は何と言っていますか。「女奴隷とその子どもを追い出してください。女奴隷の子どもは、決して自由の女の子どもとともに相続すべきではないのです。」
31こういうわけで、兄弟たち、私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです。
僕らはただ恵みによって祝福の子、自由の子です。人間の行いや何かの方法にはよりません。あるのは、ただ神様の恵み、神様の約束だけです。「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」(5.1)いつの間にか僕らを縛ろうとすることに気がつくことができますように。自由を奪おうとするものから守られますように。
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