ローマ3.21-30
どちらが正しいとか、偉いとか、みんな比べあってます。でも、聖書の答えは「義人はいない。一人もいない。」です。(ローマ3.10)「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができない」からです。(23)まるでどんぐりの背比べをしてるみたいです。
…ところがそれとは別次元ですごいことが起こりました。神様が僕らのことをまるで「一度も罪を犯したことがない、完璧な正しい人」になったかのように扱ってくれます。このことを「義と認められる」と言います。
"すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。"
ローマ人への手紙 3章22節
与えられるのは完璧な「神の義」です。「義とされる」とは「この人、一度も罪犯してません」と扱ってくれることです。「シミも汚れもない完全な人」のように見なされます。与えられるのは「僕の義」ではなく「神の義」です。実際はすべての人が罪を犯しているのでアウトです。でもその罪をイエス様が引き受け、神の怒りを受けて血を流して殺され、代わりに「神の義」が与えられました。まるで罪人と義人が入れ替わったかのようです。
"すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、
神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。
すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。"
ローマ人への手紙 3章23~26節
イエス様の十字架の犠牲によって無罪とされた「義」です。これは信じる人に与えられます。あの十字架のイエス様の犠牲の前で、血を流してくださるイエス様の前で、「どちらが正しい」とか「どちらが偉い」と比べ合うのは全く無意味になりました。自分の功績とか自慢の余地はありません。
"それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。
人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。"
ローマ人への手紙 3章27~28節
「信仰」とは「自分がやったこと」ではなくて「イエス様がしてくれたことによって無罪とされる」と信じることです。
"神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。"
コリント人への手紙 第二 5章21節
「一度も罪犯してない人」のようなすごい身分が与えられました。ただ感謝しましょう。賛美しましょう。自慢できるものは何もありません。
全部が神様のめぐみ、イエス様の犠牲、無償の愛です。神様、ありがとうございます!ハレルヤ!
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