ローマ3.9-22
ドラマや漫画で「仕返し成功!」みたいな展開があるとスッキリします。…が、前提として、「こちらが善」「あちらが悪」とか「私は正しい」「相手が間違ってる」とか、マイ判断があります。人間は「自分の善悪判断こそ正しい」と思って、(良かれと思って?)裁き合い、憎み合い、気がついたら破壊し合っている悲惨な道にはまってしまいます。これ、実は悪魔の思うツボです。悪魔は今日も「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる…」と持ち上げて、互いに殺し合うようにしています。(創世記3.5)
その気になって裁判官のようになり、王様になり、神のように目が開かれた気になって、敵を呪い、復讐し、破壊し、殺し合うことは神様から離れた人間の姿そのものです。
(10-18節)
10,次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。
11,悟る者はいない。神を求める者はいない。
12,すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」
13,「彼らの喉は開いた墓。彼らはその舌で欺く。」「彼らの唇の下にはまむしの毒がある。」
14,「彼らの口は、呪いと苦みに満ちている。」
15,「彼らの足は血を流すのに速く、
16,彼らの道には破壊と悲惨がある。
17,彼らは平和の道を知らない。」
18,「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
マイ裁判、マイ判断が飛び交う混沌とした世界に神様は明確な「律法」を与えてくださいました。モーセを通してまずイスラエルに与えられたものですが、要約すると「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」です。(ローマ13.9)「律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。」(ローマ7.12)
ところが、僕らはそんな愛の律法は守ることができません。ムリだと思います。律法によってわかることは「自分は神様も隣人も愛してない」ことです。律法を通して生じるのは罪の意識です。
(20節)
なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。
律法は僕らを救いませんが、罪深く病んでることは教えてくれます。
まるで、レントゲンとか、MRIとかみたいです。
「律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。」と聖書は言います。(ローマ7.7)
律法で罪はわかるけど、律法は救ってくれません。律法を守って神様の前に義とされることはありません。それを守る力がありません。
完璧な人になるなんて無理です。
それで聖書は言います。「律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。」(ガラテヤ3.24)
僕らの罪を正しく裁くのは神様だけです。そして、その罪を引き受けて裁かれてくださったのはイエス様です。
このイエス様を信じ、イエス様を受け入れ、イエス様につながる人は、すでに神様の怒りと呪いを終え、赦され、きよめられます。
律法は僕らを検査し、不合格にします。そして、イエス様のところに導きます。イエス様こそ僕らをきよめ、新しくし、癒し、変えてくださる方です。
(21-22)
21,しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。
22,すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。
僕らを内側から変えてくださるのはイエス様です。愛のない僕らですが、イエス様の聖霊が僕らに愛を注いでくださっています。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5.5)今日もイエス様を求めましょう。今日も聖霊を求めましょう。今日も神様から注がれる愛を求めましょう。求める人には与えられます。マイ判断、マイ裁きは手放しましょう。ハレルヤ!
0 件のコメント:
コメントを投稿