リバーワーシップスクールの名前、本当にいいな、って思います。内側から溢れ出る命の川、御霊による感謝と喜びと平安によって与えられている礼拝、賛美を目指すこのスクールで教えることができて本当に感謝しています。
やっぱり教えてて楽しいです。まずは僕自身がシンセサイザー好きなんだな、と改めて思います。自分が楽しいので伝えたい、って気持ちがあります。
シンセサイザーはいろんな音が出て楽しいです。オーケストラ風の音を出したり、最近買ったのはボーカルシンセサイザーです。かなり人間が歌ってるっぽく作れます。そういう豪華な音とか、新しい音、僕は好きだしこの賜物を預けてくださって感謝って思いますけど、同時に神様を忘れさせる大きな誘惑でもあるといつも思います。
最近問われているなあって思います。単に気持ちよく、いい思いするための音楽をしてるのか、逆に自分の好みとか楽しみではなく、御霊によって感謝し賛美し、主の栄光に触れて、その前に平伏してしまうような音を出そうとしてるのか?
問われているし、立派な音を出すほどに、その責任が問われるような気がします。
"イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」"
マルコの福音書 13章1~2節
イエス様は素晴らしい神殿、素晴らしい石に全く興味関心がなかったです。
イエス様はそこが中心ではないようです。特に礼拝や祈りにおいては人に見せるためであってはならない、と厳しくおっしゃいます。(マタイ6.5)見せるために祈ったり何かをしたりする人を偽善者ども、と叱る方です。
「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。"
マルコの福音書 7章6節
「もう、むなしいささげ物を携えて来るな。」というイザヤ書の「むなしい」という言葉は十戒の「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。」(出エジプト20.7)の「みだりに」と同じです。
"もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙、それはわたしの忌み嫌うもの。新月の祭り、安息日、会合の召集──わたしは、不義と、きよめの集会に耐えられない。"
イザヤ書 1章13節
豪華な音を出しても、もしそれが中身のないものなら、天ではむしろ嫌われるものです。
神様の前にへりくだり、そのご臨在の前に圧倒され、跪くものでなければ、平伏して、自分を捨てて、自分の冠を捨てて捧げるものでなければ、それは虚しいものです。神様はその歌を聞きたくない、とさえおっしゃいます。
"あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。あなたがたの琴の音を、わたしは聞きたくない。"
アモス書 5章23節
生きておられる主の栄光のご臨在の表れでなければ、聖なる主を表すものでなければ、単なる歌の騒ぎです。わたしは聞きたくない、と神様がおっしゃいます。
新しい技術が与えられるたびに問われます。それは何に使うのか、と。自分の虚栄心のためか、それともへりくだって主の栄光のために、自分を捨てて賛美するためか。
多く預かった人は多く求められます。このリバーを卒業した人は、ますます献身が求められます。ますます自分を捨ててへり下り、主の栄光だけを求めることが求められます。
もう一回悔い改めましょう。高ぶりを認めましょう。もう一度自分を捨てましょう。自分を捨てた時に残るのは主の栄光、主のご臨在です。自分を捨て明け渡した時に、圧倒的な天からの喜び、栄光、主権が表されます。
主の栄光だけが表されますように。
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