聖書は何度も何度も「キリストのために苦しむなら喜びなさい!」と繰り返します。それはイエス様につながってることの証拠だし、聖霊をいただいている証拠です。イエス様がののしられるので僕らもののしられます。しかも、それは悲しみだけど、不思議と喜びでもあります。聖霊をもらっている人は、苦しいけどイエス様に喜ばれていることがわかります。
(12-14節)
愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
僕らは自分の欲や快楽を求めて生きて来ました。ところが、イエス様を信じた時に、だんだんこの世の快楽も娯楽もパーティも色あせて見えて来ます。それよりも、天にある喜びを知ってしまったので、快楽や罪よりも神様に喜ばれる歩みをしたい、と願うようになります。神様を知らない人から見るとクリスチャンのやってることは意味がわかりません。損にしか見えません。でも、天の喜びを知った人は地上のことよりも、神様を選びたくなります。苦しみを受けても、です。それが天で喜ばれていることがわかるからです。
(1-5節)
キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。あなたがたは異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、律法に反する偶像礼拝などにふけりましたが、それは過ぎ去った時で十分です。異邦人たちは、あなたがたが一緒に、度を越した同じ放蕩に走らないので不審に思い、中傷しますが、彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります。
この世界は終わります。その時にどんな快楽や権力を握っていてもそれらはクズになります。
天で永遠に価値があることは、神様を愛することと隣人を愛することだけです。神様を愛することは祈ること、賛美すること、感謝することです。これは最高に価値のあることです。だから、祈りのために時間も力も整えなさい、と聖書は言います。地上にいながら天の神様との交流をすることが祈りです。
(7)
万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
祈りはどんなことよりも価値があります。なぜなら、世界の全てを所有し、支配している神様との交わりだからです。祈りは感謝であり、祈りは賛美です。祈りは神様とのホウレンソウです。神様と交わっていると、神様の愛が注がれ与えらます。そして僕らは隣人を愛するようになります。世界が終わっても価値があることは、神様を愛することとと、互いに愛することだけです。
(8-11)
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。
僕らが預かっている能力は全部神様のものです。神様を愛し、互いに愛するために賜物として預かっています。文句や不平はくだらないゴミに見えてきます。相手がどうであっても愛することは、神様の愛そのものです。僕らが預かっている賜物を総動員して神様と人を愛し仕えることはどんなことよりも価値があります。それで苦しんだり傷つけられても大丈夫です。イエス様と直接お会いする時「歓喜にあふれて喜ぶ」ことになります!
この世で惨めに見えても、この世で貧しく見えても、神様を愛し、人を愛することは最高の時間と力とお金の使い方です。クリスチャンの歩みはシンプルです。神様を愛すること。そして隣人を愛することです。
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