詩篇54篇
祈りとは100%主に体重を預けていくようなプロセスです。自分で自分を支えることをやめて、全ての状況を主に任せていくのが祈りです。祈りは頑張ることではありません。むしろ反対です。自分を手放し、神様にお任せしていくことです。詩篇は祈りのお手本です。苦しみから救われるのは神様の力によります。そのことを「御名によって救われる」と言います。御名とは神様の力強い救いのみわざです。
(1節から3節)
1,神よあなたの御名によって私をお救いください。あなたの力強いみわざによって私を弁護してください。
2,神よ私の祈りを聞いてください。私の口のことばに耳を傾けてください。
3,見知らぬ者たちが私に立ち向かい横暴な者たちが私のいのちを求めています。彼らは神を前にしていないのです。セラ
ダビデがサウルに命を狙われているときに、知らない人たちまでもが「ダビデは私たちのところに隠れています」と密告して命を狙います。そのような状況でも神様の圧倒的な支配と力はあります。ダビデは自分で自分を救うことができません。でも、神様の御名を求めるときに、神様は聞いて下さり、神様が救ってくださいます。神様100%、人は0%です。
(4節から5節)
見よ神は私を助ける方。主は私のいのちを支える方。
神は私を待ち伏せる者たちにわざわいをもって報いられます。あなたの真実によって彼らを滅ぼしてください。
人はいろんなことを言いますが、真実なのは神様だけです。ダビデは人間の真実さとか権威でなく、ただ、神様の御名によって、その真実さによって救ってくださいと祈りました。そしてその祈りは聞かれます。ダビデは祈った通りに救われます。
同じことが僕らにも言われています。イエス様は何度もおっしゃっいました。「あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。」「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。」(ヨハネの福音書 14章13~14節)イエスの御名とは権威や力のことです。「イエスの御名によって祈る」とは、イエスの権威と力に依存することを意味します。
「わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。(…中略…)求めなさい。そうすれば受けます。」(ヨハネの福音書 16章23~24節)
イエス様の御名に頼って祈ることは、イエス様が神の子であり、イエス様を通して神の力が働くという信仰の現れです。祈りは主により頼んでいくプロセスです。
そのようにしてお任せし、ハンドルを手放す時に残るものは感謝と喜びと平安です。ダビデは命を狙われている状況が変わらないのにもかかわらず、祈りの後半には感謝があり、平然と敵を眺めるようになっています。
(6節から7節)
6,私は心からのささげ物をもってあなたにいけにえを献げます。主よあなたの御名に感謝します。すばらしい御名に。
7,神がすべての苦難から私を救い出し私の目が敵を平然と眺めるようになったからです。
僕らも思い煩わないで、どんなこともイエス様の御名に信頼して祈るように言われています。そうすれば、人の思いを遥かに超えた平安が与えられ、僕らは守られます。祈りは自分を手放していくプロセスです。残るものは感謝と平安です。祈りましょう。今日も大丈夫です!
(ピリピ人への手紙 4章6~7節)
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
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