1サムエル26章
敵を赦し愛すると報いがあります。イエス様はそれを明言しています。
(ルカ6章35節)
あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。
報いの一つは相手が悔い改めることです。
ダビデはサウルに命を狙われ続けますが、機会があるたびにサウルを尊敬していること、憎んでないし殺そうともしていないことをあえて表しました。ある時は、宿営しているサウルの寝床まで行って、サウルの槍を盗みます。これはサウルを尊敬しており、殺せても殺さないことを表すためでした。
(7~12節)
ダビデとアビシャイは夜、兵たちのところに来た。見ると、サウルは幕営の中で横になって寝ていて、彼の槍が、枕もとの地面に突き刺してあった。アブネルも兵たちも、その周りに眠っていた。
アビシャイはダビデに言った。「神は今日、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうか私に、槍で一気に彼を地面に突き刺させてください。二度することはしません。」
ダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。主に油注がれた方に手を下して、だれが罰を免れるだろうか。」
ダビデは言った。「主は生きておられる。主は必ず彼を打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下ったときに滅びるかだ。
私が主に逆らって、主に油注がれた方に手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。さあ、今は、枕もとにある槍と水差しを取って、ここから出て行こう。」
ダビデはサウルの枕もとの槍と水差しを取り、二人は立ち去ったが、だれ一人としてこれを見た者も、気づいた者も、目を覚ました者もいなかった。主が彼らを深い眠りに陥れられたので、みな眠り込んでいたのである。
ダビデは、山の上に登ってからサウルの宿営にいる護衛長のアブネルに語りかけて、王様が殺されそうになっていたこと、槍が盗まれていることを知らせます。それは自分が殺せたのに殺さなかったことを伝えるためです。それを聞いたサウルは、ダビデが自分を尊んでくれていることを知り、自分の間違いを認めます。
(13節から17節)
13,ダビデは向こう側へ渡って行き、遠く離れた山の頂上に立った。彼らの間には、大きな隔たりがあった。
14,ダビデは、兵たちとネルの子アブネルに呼びかけて言った。「アブネル、返事をしないのか。」アブネルは答えて言った。「王を呼びつけるおまえはだれだ。」
15,ダビデはアブネルに言った。「おまえは男ではないか。イスラエル中で、おまえに並ぶ者があるだろうか。おまえはなぜ、自分の主君である王を護衛していなかったのか。兵の一人が、おまえの主君である王を殺しに入り込んだのだ。
16,おまえのやったことは良くない。主に誓って言うが、おまえたちは死に値する。おまえたちの主君、主に油注がれた方を護衛していなかったのだから。今、王の枕もとにあった槍と水差しが、どこにあるか見てみよ。」
17,サウルはダビデの声と気づいて、言った。「わが子ダビデよ、これはおまえの声ではないか。」ダビデは答えた。「わが君、王様。私の声です。」
(21節から25節)
21,サウルは言った。「私が間違っていた。わが子ダビデよ、帰って来なさい。もう、おまえに害を加えない。今日、おまえが私のいのちを尊んでくれたのだから。本当に私は愚かなことをして、大変な間違いを犯した。」
22,ダビデは答えて言った。「さあ、ここに王の槍があります。これを取りに、若者の一人をよこしてください。
23,主は一人ひとりに、その人の正しさと真実に応じて報いてくださいます。主は今日、あなたを私の手に渡されましたが、私は、主に油注がれた方に、この手を下したくはありませんでした。
24,今日、私があなたのいのちを大切にしたように、主は私のいのちを大切にして、すべての苦難から私を救い出してくださいます。」
25,サウルはダビデに言った。「わが子ダビデよ、おまえに祝福があるように。おまえは多くのことをするだろうが、それはきっと成功する。」ダビデは自分の道を行き、サウルは自分のところへ帰って行った。
サウルはダビデの愛と尊敬を知り自分の間違いを認めました。敵に善を表すことで相手が罪を認めることを聖書は「燃える炭火を積む」と言います。それが「主があなたに報いてくださる」ことです。(ローマ12.20、箴言25.22)
(箴言 25章21~22節)
あなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。
なぜなら、あなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださるからだ。
「燃える炭火」の解釈はいくつかあります。一つは敵に善を行うことで、強い良心の呵責を感じさせ、結果として相手が悔い改めることです。そして、もう一つは、この当時悔い改めの印として頭上の火鉢に炭火を載せることがあったそうです。いずれにしても、善で返すことは悪や憎しみの連鎖を断ち切り勝利することを強調しています。「善をもって悪に打ち勝ちなさい」です。(ローマ12.21)
お手本はイエス様です。イエス様が罪人を裁かず、殺さず、その罪をご自分が裁かれる側になってくださり、罪と呪いを引き受けてくださいました。今度は僕らの番です。敵を赦し愛することはイエス様の願いであり神様の子どもらしい性格です。「そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。」(ルカ6章35節)
ダビデも報いがあると言いました。「主は一人ひとりに、その人の正しさと真実に応じて報いてくださいます。」(23)敵を赦し愛を表すことは良いことだらけです。たとえその日は逆ギレされてもやがて報われます。今日、悪に対して善で返す日でありますように。ハレルヤ!
0 件のコメント:
コメントを投稿