ホセア8章
愛されたくて、振り向いてほしくて、親切やプレゼントを使うことがあります。エフライム(北イスラエル)はアッシリヤなど強そうな国々に贈り物をしますが、それは与えるのではなく相手から受けるためです。「エフライムは愛を求めて贈り物をした。」(9)と書かれています。お金をかけて強国の友情を買おうとすることとは、まるでお金で恋人を雇うかのようです。一方、周りは全然イスラエルのことを好きでもないし、仲良くしたいとも思っていません。「彼らは国々の間にあって、だれにも喜ばれない器」(8)とあります。イスラエルと付き合う理由はせいぜい、「あいつらの財産をうちらのものにできる」という下心くらいです。イスラエルが神様から離れた結果、周りの国からはバカにされ、お金を積まないと相手にされない状態になっていました。イスラエルは必死に他の国に媚びます。(9節)
(9-10節)
彼らは、ひとりぼっちの野ろばで、アッシリアへ上って行った。エフライムは愛を求めて贈り物をした。
彼らが諸国の民に物を贈っても、今、わたしはそれらを集める。彼らは、王や首長への貢ぎによって間もなく汚されることになる。
彼らの最後は利用されて滅ぼされるだけです。イスラエルの贈り物は、一見良いことに見えますが、本音は「相手をコントロールするための手段」です。僕らもよくあることです。「与えるから、思い通りに動いてくださいね」って気持ちは誰にでも起こります。相手が神様であっても、神様を動かすために信仰っぽいことをすることもあります。イスラエルは他国に媚びるように、神様に対しても熱心そうに祭壇を増やします。神様の祝福を引き出すためです。
(11)
エフライムは祭壇を増やして罪を犯すようになった。それらは彼にとって罪を犯すための祭壇となった。
彼らは神様の教えは無視して「神様、祭壇をたくさん作るから守ってくださいね」と言いたげです。ささげものをすれば神様は動く、という高ぶりです。「神様こんなに捧げてますよ、だから○○してくださいね」という態度は「罪」だと聖書は言います。「エフライムは祭壇を増やして罪を犯すようになった。」(11)
(13-14)
わたしへのささげ物のいけにえとして彼らが肉を献げて食べたとしても、主はこれを喜ばない。今、主は彼らの不義を覚え、その罪を罰する。彼らはエジプトに帰る。
イスラエルは自分の造り主を忘れ、神殿をいくつも建てた。ユダは、城壁のある町々を増し加えた。しかし、わたしはその町々に火を放つ。火はその宮殿を焼き尽くす。」
神様を動かそうとして、イスラエルは神殿をたくさん建てます。神様との関係を「取引」や「操作」にしてしまって、真実な信頼や愛から離れていました。神様が求めておられるのは取引ではなく、真実な愛です。
(ホセア6.6)
わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。
神様が喜びとする「真実の愛」とは相手のために、自分を差し出すことです。条件つきではありません。
「ニセモノの愛」は自分のために相手を使うことです。「愛してる、だから○○して」という感じです。
隣人に対する真実の愛も、神様への愛も人間からは出てきません。
愛は神様から与えられます。愛は聖霊によって与えられる、イエス様のものです。
(ローマ5.5)
私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
(ローマ5.8)
私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
神様に対しても、隣人に対しても親切そうにして「コントロールしたがる心」があります。
礼拝や教会すら隣人を動かそうとする操作の道具になることもあります。
そこに神様の喜びはありません。「主はこれを喜ばない。」とあります。(13)真実な愛は100パーセント神様から与えられるものです。今日も御霊を求めましょう。求めるなら必ず与えられます。この愛がなければ「何の役にも立ちません。」(1コリント13.3)
 
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