ホセア13章
「時間がない、お金がない、敵がいる」イヤだけど、そんな時にこそ、神様のリアルな守りや愛、恵みを本気で祈り求め体験できます。逆に、時間もお金もたっぷりあって平和になると神様に求めたり感謝したりしなくなりがちです。お金も平和も神様が与えてくださってるのに、です。イエス様は「貧しむ者、悲しむ者、飢える者、迫害される者は幸い」とおっしゃいます。(マタイ5章、ルカ6章)貧しく苦しむ時こそ本気でひざまずいて祈り求めることができるし、助けられた時に100パーセント神様に感謝できるからです。イスラエルは400年も奴隷とされ、まさに苦しむ者、悲しむ者でした。彼らはただ神様に求め、救い出され、何もない荒野で養われました。
(4-5節)
しかしわたしは、エジプトの地にいたときから、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はいない。
このわたしは荒野で、干ばつの地であなたを知っていた。
イスラエルが通ってきた荒野はいつも死と隣り合わせの危険地帯でした。危険だからこそ、神様の助けが明白でした。やがて神様は乳と蜜の流れる地で満腹させてくださいます。満足した時こそ本当に危険な時です。神様を忘れて傲慢になりやすいからです。
"あなたが食べて満ち足りたとき、主がお与えくださった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。
気をつけなさい。私が今日あなたに命じる、主の命令と主の定めと主の掟を守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。
あなたが食べて満ち足り、立派な家を建てて住み、
あなたの牛や羊の群れが増え、銀や金が増し、あなたの所有物がみな豊かになって、
あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れることがないように。(…中略…)
あなたは心のうちで、「私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。"
申命記 8章10~17節
ですが、イスラエルの民は警告されていた通りに神様を忘れ、高ぶり、裏切ります。
(6節)
しかし牧草で満腹したとき、彼らは満ち足り、心は高ぶり、そうしてわたしを忘れた。
「神様?あ~もういいや」みたいに思ったようです。「ウチらに満足や喜びをもたらすのはコレだ!」と偶像を作り出し、「コレのおかけで繁栄している」と誉めたたえます。とんでもない間違いです。
(2節)
今、彼らは罪を重ね、自分のために銀で鋳物の像を造り、自分の考えで偶像を造った。これはみな、職人のわざ。彼らはこれについて言う。『人を献げる者たちは、子牛に口づけせよ』と。
聖書は「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」と言います。(詩篇103.2)神様を忘れ、神様を裏切ることは全ての祝福を自分から捨てるようなものです。神様を捨てるときに、与えてくださった良いものも全部手放すことになります。どんな王様も助けてくれません。残るのは神様の怒りと裁きだけです。
(7-11節)
7,わたしは彼らに対して獅子のようになり、豹のように道端で待ち伏せる。
8,子を奪われた雌熊のように彼らに襲いかかり、彼らの胸をかき裂いて、その場で雌獅子のように食らう。野の獣は彼らを引き裂く。
9,イスラエルよ、あなたは滅ぼされる。あなたの助け手である、わたしに背いたからだ。
10,では、あなたの王はどこにいるのか。すべての町のうちで、あなたを救う者は。あなたをさばく者たちはどこにいるのか。かつてあなたが『私に王と高官たちを与えよ』と言った者たちは。
11,わたしは、怒ってあなたに王を与え、また憤ってこれを奪い取る。
(15-16)
15,彼は兄弟たちの中で栄えている。だが、東風が吹いて来て、主の息が荒野から立ち上り、水源は涸れ、泉は干上がる。それはすべての尊い器がある宝物倉を略奪する。
16,サマリアは咎ある者となる。自分の神に逆らったからだ。彼らは剣に倒れ、幼子たちは八つ裂きにされ、妊婦たちは切り裂かれる。」
「偶像を造ってはならない。」という律法を守れないのが人間です。(出エジプト20.4)律法は神様の怒りをもたらします。律法を守ったら救われるのではなく、律法はそれを守れない「私たちをキリストへ導くための私たちの養育係」です。(ガラテヤ5.24)「よーし頑張ろう!」と思っても長続きしません。僕らは弱いものです。本当の救いが必要です。
イスラエルは神の怒りで多くの人が殺されました。今日のホセア13章は恐ろしい神様の怒りの章です。しかし、それでも神様は救おうとしてくださっています。イエス様は神様の怒りを受けて殺される側に来てくださいました。罪はないのに、まるで神様を裏切り殺される者のように、十字架で神様の呪いを受け、殺され、葬られました。死は罪の結果です。
(14節)
わたしはよみの力から彼らを贖い出し、死から彼らを贖う。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。よみよ、おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。
イエス様を信じた僕らも一度は死ななければなりません。…ですが、イエス様は復活されました。そして、イエス様を信じる僕らも同じように復活します。
新約聖書はこの恐ろしい箇所を解説してくれています。イエス様が僕らを憐れみ、見離さず、イエス様と一緒に復活させてくださり、罪も汚れもない完全な体に変えてくれます。
"そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」
「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」"
コリント人への手紙 第一 15章54~55節
神様の怒りと裁きはあります。ホセア書に描かれた神様の怒りは僕らが受けるべき裁きです。僕らには救いが必要です。クリスチャンになってもなお高ぶって悪いことをしまう僕らがいます。パウロ先生でさえそうでした。
(ローマ7.18-19)
私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。
私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。
僕らの救いはイエス様だけです。イエス様だけが代価を払って僕らを取り戻してくださった方です。「わたしはよみの力から彼らを贖い出し、死から彼らを贖う。」(14)とおっしゃるのは、イエス様の救いの預言です。イエス様以外に救いはありません。ただ感謝しましょう。
(ローマ7.24-8.1)
私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。(…中略…)こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
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