僕らは苦しい時には主を求めやすいですが、順調なときには、その成功や平和が主から来ていることをすっかり忘れてしまいます。イエス様は「心の貧しい者は幸いです」とおっしゃいました。(マタイ5.3)貧しい時こそ僕らは神様を求め、より頼みます。イエス様は「天のみ国はその人のものだから」とおっしゃいます。レハブアムは自分の立場が強くなると神様を捨てました。自分が安全だとわかると、もう宗教はいらないと考えたようです。
(1)
レハブアムの王位が確立し、彼が強くなると、彼は主の律法を捨て、彼とともにいた全イスラエルもそうした。
神様はそんなレハブアムを放っておきません。愛しているからです。敵エジプトを使って懲らしめを用意し預言者を通して警告してくださいます。主は愛する子を懲らしめます。(ヘブル12.5-7)敵の攻撃は「イスラエルが主の信頼を裏切っていたから」です。
(2-5)
さて、レハブアム王の第五年に、エジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上って来た。イスラエルが主の信頼を裏切っていたからである。(…中略…)彼はユダに属する防備の町々を攻め取り、エルサレムまで攻め寄せて来た。そのとき、預言者シェマヤが、シシャクのことでエルサレムに集まっていたレハブアムとユダの首長たちのもとに来て言った。「主はこう言われる。『あなたがたがわたしを捨てたので、わたしもあなたがたを捨てて、シシャクの手に渡した。』」
神様からの懲らしめはレハブアムを悔い改めさせました。そして、神様は悔い改めとへりくだりを見て憐れんでくださいます。
(6-7)
すると、イスラエルの首長たちと王はへりくだり、「主は正しい」と言った。主が、彼らのへりくだった様子をご覧になると、シェマヤに次のような主のことばがあった。「彼らがへりくだったので、わたしは彼らを滅ぼさない。間もなく彼らに救いを与える。わたしの憤りがシシャクの手を通してエルサレムに注がれることはない。
神様はレハブアムを憐れんでくださいます。エジプト軍の攻撃は神様からの警告でした。レハブアムの悔い改めにより敵の攻撃は過ぎ去り罪は赦されました。ですが、後遺症は残ったようです。
(9-12)
エジプトの王シシャクはエルサレムに攻め上り、主の宮の財宝、王宮の財宝を奪い取った。彼は何もかも奪い取った。ソロモンが作った金の盾も奪い取った。レハブアム王は、その代わりに青銅の盾を作り、これを王宮の門を守る近衛兵の隊長の手に託した。
(…中略…)王がへりくだったとき、主の怒りは彼を離れ、主は徹底的に滅ぼすことはされなかった。ユダにも良いことがあったのである。
僕らも順調さゆえに高ぶり、自分を誇り神様を見下すことがあります。神様の懲らしめは僕らを謙遜にし、もう一度神様を崇めるようにしてくださいます。主は罪を赦してくださいます。…が、罪の影響を残しておられます。そのことによって、僕らは罪がひどい結果をもたらすかを経験します。
高ぶって神様を裏切るなら何も良いことがありません。
僕らに与えられている順調さも、安全も、力も、全ては神様からあたえられているものです。高ぶらず感謝しましょう。罪ゆえにわざわざ傷つく必要はありません。今日も主を求め、主により頼みましょう。国と力と栄えはとこしえに主のものだからです。アーメン!
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