クリスマスとは、この世界の王が地上に来られた、という話です。この話を聞いた人の反応は2つに分かれます。①不安で怒る人 ②平安で喜ぶ人です。
最初に①の不安で怒った人はヘロデ王です。聖書に次のように書かれています。
(1-3節)
イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。
不安や怒りやすい人の正体は「自分の思い通りになるべき」と強く思っている人です。「こうでなければ」と思う人ほどそうならない時の不安が大きいようです。そして不安は怒りを生み出します。
このヘロデ王はユダヤの王様になるために大変な努力をし犠牲を払って王になった人です。ユダヤ人ではないのに、ユダヤ教に改宗し、ユダヤ人に認めてもらうために莫大なお金をかけて立派な神殿を作りました。そうやって頑張って来たのがヘロデ王です。
そんな彼に何も知らない東方の偉い人たちが来て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と言います。これは彼にとって失礼だし不安にさせます。彼はいつも人を疑い不安にさいなまれる人だったそうです。誰かが自分の命を狙っている、と不安に思うと家族でも殺し、実際に十人いた妻の半数は「自分の命を狙ってるかもしれない」という不安と疑いで殺しています。15人の子どもたちのうち、後継者が誰になるか、というのがこの家族では大問題でした。一番愛していたと言われる2人の息子を殺しています。彼はいつも疑い、不安、憎しみの中にいました。
そんな性格を何も知らないで、東の方の国から偉い博士たちが新しい王様を拝みに来ました、ということに彼は耐えられませんでした。
ヘロデ王の疑いと不安と怒りにエルサレムの人々も振り回されていました。だから、この時動揺したのはヘロデ王だけではなくて、「ヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。」と書かれています。
不安になった王様はどうしたかというと、新しい王様と言われる赤ちゃんの位置情報を特定して殺すことにしました。そのために旧約聖書の預言を徹底的に調べさせます。すると専門家たちはベツレヘムにその赤ちゃんはいる、と答えます。
(5-6節)
彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」
旧約聖書にベツレヘムから「治める者が出る」と書かれています。これはヘロデ王にとって不安倍増です。自分が治めている王様なのに、ベツレヘムから出るキリストと言われる王が誕生すると預言されているし、しかも、「治める者」「イスラエルを牧する」とさえ書かれています。こんなに頑張って来た自分の立場ややり方が全部否定されたような気がして彼は怒ります。
ヘロデ王も僕らも、怒るときには「思い通りにならない」というイライラがあります。「思い通りにならない」とは、「こうでなければならない」という気持ちです。ねばならない、こうであるべし、と思う人ほどそうならないときに不安と怒りと悲しみに縛られて行きます。
(7-8節)
そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞いた。
そして、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出した。
本当はピンポイントでその子どもを特定して殺そうと思ったようです。ここでは平静を装って「私も拝むから」と言いました。本音は私も行って殺すから、です。
ところが、イエス様の場所がわかっても博士たちはヘロデに教えませんでした。夢で「ヘロデのとろこに戻らないように」と言われたからです。ヘロデはそのことでさらに怒ります。結局、ベツレヘムの2歳以下の赤ちゃんを全部殺します。
(16節)
ヘロデは、博士たちに欺かれたことが分かると激しく怒った。そして人を遣わし、博士たちから詳しく聞いていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。
ヘロデは不安を自分の力で消そうとする人です。
今まで何人もの人との関係を切って来たし、家族でさえも殺して来たように、同じようにキリストを殺すためにベツレヘムの赤ちゃんを全部殺しました。でも何人殺しても、何人と関係を切っても彼の不安は消えることがありませんでした。
自分が王であり続け、自分の思い通りになるようにと頑張り続ける人はいつまでも不安です。そしていつも怒りに支配されてしまいます。
ヘロデは何人殺しても不安でした。自分の思い通りにならねば、と思う人は不幸です。そこには平安も喜びもありません。
僕らは神ではないし、王でもありません。イエス様が王であり神様です。このイエス様をお迎えし、従い、ひれ伏し、明け渡す人には喜びと平安があります。
次にイエス様という新しい王にひれ伏した人の実例です。
②平安で喜ぶ人です。
(1-2節)
イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」
彼らはイエス様をユダヤ人の王様として認め、しかも礼拝するために来ています。礼拝とは原文でひれふす、とか、ささげる、委ねる、という意味です。実際、彼らはイエス様とお会いした時に、ひれ伏してささげています。
(9-11節)
博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
自分が王ではないことを認め、自分に起こる出来事を主に明け渡し、全ての出来事の権威を明け渡し、イエス様に従う人には喜びがあります。不思議ですが自分が王様になる人は不安と怒りに支配され、自分の思い通りでなくていいです、としもべになって手放す人は安心し喜んでいます。彼らは喜んでイエス様の前にひざまずき、礼拝しました。僕らもそうすべきです。そこにこそ平安と喜びがあります。
今日の箇所はイエス様がまずユダヤ人の王であることをはっきりと伝えています。そして、その方の前にひれ伏して全てをささげることの安心と喜びを伝えています。
僕らは王ではありません。イエス様が王です。従い、ひれ伏す人には喜びと平安があります。自分の思い通りにならなくていいです。この王様の権威によってもっと素晴らしいことが起こるからです。そこには平安と喜びがあります。
イエス様を迎えましょう。新しい王様が来られました。ひれ伏し、手放し、従いましょう。そこに祝福があります。喜びと平安があります。ハレルヤ!
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