レビ26章1-20 祝福の約束と安息
●神様がすでに確約してくださっている乳と蜜の流れる地
レビ記はイスラエルが奴隷から自由になった直後に言われた神様のことばです。
イスラエルは400年も奴隷で苦しんでいじめられて搾取される奴隷でした。
神様は彼らを憐れみ、愛し、解放して脱出させてくれました。
これからは素晴らしい場所に住むことになります。それは「乳と蜜の流れる地」です。そこに、あなた方を招き入れるよ、と言われた時です。
聖書を読んだら、何度もイスラエルを乳と蜜の流れる地に連れて行く、って書いてあって、検索したら20回ありました。そこで祝福される、という場所です。
しかも神様が「誓った」とあります。人間の誓いなんていい加減だけど、でも神様が誓いは間違いないです。神様は嘘つきではありませんまた、神様の側からの「契約」でもあります。
実際、乳と蜜の流れる土地、ってどんなの?以前僕は牛乳が流れてる川があるのかな?とか、そんなイメージでしたが、これは豊かさの表現です。ここではリアルに具体的に何が起こるか書いてあります。4節から9節までです。
"わたしは時にかなってあなたがたに雨を与える。それにより地は産物を出し、畑の木々はその実を結ぶ。
あなたがたの麦打ちはぶどうの取り入れ時まで続き、ぶどうの取り入れは種蒔きの時まで続く。あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかに自分たちの地に住む。
また、わたしはその地に平和を与える。あなたがたはだれにも脅かされずに寝る。また、わたしは悪い獣をその国から除く。剣があなたがたの地を行き巡ることはない。
あなたがたは敵を追い、彼らはあなたがたの前に剣で倒れる。
あなたがたの五人は百人を追い、百人は一万人を追う。あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる。
わたしはあなたがたを顧み、多くの子を与えてあなたがたを増やし、あなたがたとのわたしの契約を確かなものにする。"
レビ記 26章4~9節
これが神様の誓いであり、契約であり、確定事項です。
それでもあなたは迷いやすいから、周りの偶像に惑わされて、この祝福からはみ出てははいけないよ、という警告も書かれています。
●自分のための偶像を作ってはならない。
そこには先住民族がいて、彼らは神様の祝福を知らずに偶像を作り拝んでます。バアルとか、アシュラという偶像です。その宗教は淫らなこととセットです。
性的な淫らな欲求とか、儲け、とか、自分の栄光や欲望を満たそうする宗教、偶像です。そういう誘惑に満ちた場所でもあるから、あなた方は自分のために偶像作ってはいけない、とあらかじめ言われます。
(1節)
あなたがたは自分のために偶像を造ってはならない。また自分のために彫像や石の柱を立ててはならない。あなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしがあなたがたの神、主だからである。
僕たちクリスチャンはは人形みたいなものを作って拝んだりしませんが、でも、この世の人たちがやっている、欲望を満たす方法、とか、周りの人たちの儲かる方法を私もやってみよう、試してみよう、という誘惑はあると思います。みんな、どうやって性欲を満たしてるのかな?どうやって儲けたり、自慢したりしてるのかな?ちょっと私もやってみよう、って思わせる機会はいつもあると思います。
神様の祝福と愛と平安と喜びを知らない人ほど、この世に魅力を感じるようです。罪は自分が満たされ、自分が快楽を得るようにと誘います。偶像とはそういうものです。
(1)
あなたがたは自分のために偶像を造ってはならない。また自分のために彫像や石の柱を立ててはならない。あなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしがあなたがたの神、主だからである。
ここで質問です。
自分を満たすための偶像を試してみたい誘惑はありますか?
あなたにとってはそれは何でしょう
1節は「自分のために」偶像を作ったそれはいけないと書かれています。
イエス様を礼拝しているし、信じてるけど、イエス様さえ自分のため、自分の快楽、儲け、自分の栄光のための偶像のようにすることもあると思います。
イエス様を人形のようにしないけど、でも、肉欲を、承認欲求を、自分の栄光を満たしてくれるもののように、貶めて、利用することがなくはないです。
奉仕、と言いつつ、私の手柄、私の仕事、私の願いを実現させるものになることもあり得ると思います。
自分が上で、イエス様が下に、イエス様を使って私のが上になるように、いつの間にかそうやってズレることはあります。思い通りにならないと、イエス様ってひどい、と文句を言うことはなくはないと思います。文句は、自分が上で神様を下に見ている黄色信号だと思います。
自分もいつもその誘惑にあってると思っています。
牧師として熱心に奉仕しています。だけどやっぱり自分の栄光、自分の成功、自分の幸せが優先で、イエス様の栄光、イエス様の主権を後回しにする誘惑があると思います。
自分の教会が繁栄すること、そして自分の家庭が守られること、全部自分のためです。自分がラクしたいから自分が祝福されたいから自分が幸せになりたいから、が優先です。
神様の栄光じゃなくて、自分の栄光とか、神様の喜びじゃなくて、自分の喜びが優先、そういう誘惑があると思います。
神様は、もう最初から愛して、祝福して、良いものを与える、と決定しています。だから、自分のため利用する相手でもなく、最初から神様が用意してくださる愛と恵をよく考えなさい、と言うのがスタートです。
●約束を確認するための安息日、安息年
(2)
あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。
こういう看板があったのでちょっとのメモしました。
ーーーーーーーーー
幸せは求めるものではなく、気づくものです。
「築く」ではなく「気づく」
ところが私たちは「築く」ものと思っている。
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すごく聖書的だな、と思いました。
神様が最初から与えてくれるのが幸せです。それを確認するのが安息日です。
25章では7年目には必ず安息の年を作りなさい、あなたが手入れをしてはいけないとおっしゃいます。それは神様が食物を与えてくださる、そのような安息の年です。
"「イスラエルの子らに告げよ。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は主の安息を守らなければならない。
六年間はあなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の刈り込みをして収穫をする。
七年目は地の全き休みのための安息、主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の刈り込みをしたりしてはならない。
あなたの落ち穂から生えたものを刈り入れてはならない。あなたが手入れをしなかったぶどうの木のぶどうも集めてはならない。これは地のための全き休みの年である。"
レビ記 25章2~5節
6年間は畑に種まいてOKだし、ブドウ畑を剪定して実を収穫してもOKです。でも7年目は、畑に種まいちゃダメだし、ブドウ畑の収穫もダメです。自然に生えてきたものも、そのままにしておきます。
一切仕事をしないでどうやって生活するの?と僕らは思います。これは、イスラエルの人たちに本気で神様を信頼するように求める話です。6年の間に十分な収穫を与えてくれて、7年目の休みの間もちゃんと生きていけるようにしてくださる神様を信頼するための教えです。もちろん心配はあります。神様はその心配を代弁してくださいます。
"あなたがたは、『もし私たちが種を蒔かず、また収穫もしないなら、七年目には何を食べればよいのか』と言うであろうが、
わたしは六年目に、あなたがたのためにわたしの祝福を命じ、三年分の収穫を生じさせる。
あなたがたが八年目に種を蒔くときにも、前の収穫をなお食べている。九年目まで、その収穫があるまで、なお前のものを食べることができる。"
レビ記 25章20~22節
七年目の収穫はあらかじめくださいます。しかも三年分です。次の収穫が与えられるまで足りるから大丈夫です。しかも豊かに与えてくださいます。
「地は実りをもたらし、あなたがたは満ち足りるまで食べ、安らかにそこに住むことができる。」(19)
これは、土地も収穫も自分たちのものじゃなくて神様のものだ、と証明するための安息年です。
●スタートは睡眠から
ユダヤ人たちの1日の始まりは日没です。
それは神様がこうおっしゃるからです。
(創世記1章5節)
夕があり、朝があった。第一日。
「夕があり、朝があった。」は聖書で繰り返されていて、第2日、第3日、と続きます。
神様が願っている1日のスタートは日没です。今みたいに電気で明るくして24時間営業をするのでなくて、まずは神様におまかせして休む、寝る、というのが1日のスタートです。今もユダヤ人たちはそのように数えます。
日本だったら、太陽が上った。さあ起きよう、始まった、と思うかもしれませんが、聖書がいう始まりは、太陽が沈んだ。さあ休もう、です。今からまず寝て、これからのことは神様にに任せよう、という感じです。寝てる間に神様が備えてくださる。これがスタートです。よく眠れるのは、神様が良いことをしてくださることへの信頼があるからです。
睡眠削って体を壊すまで頑張るのではなくて、神様が私にちょうどよく、良いものをあたてくださる、という信頼と安心感の中で、神様におまかせして、夜は寝る、ということです。
これは、どんな仕事でも、人間関係でも同じです。「自分が寝てる間にも神様が働いてくれている」と信じられるかどうか。それが信仰の核心でもあります。
"主が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい。
あなたがたが早く起き遅く休み労苦の糧を食べたとしてもそれはむなしい。実に主は愛する者に眠りを与えてくださる。"
詩篇 127篇1~2節
聖書は何度も「神様なしの努力は虚しい」と繰り返します。神様に信頼しないで自分の力だけで生きようとする生き方は虚しいものです。信頼して休んでいる人にこそ、必要なものを与えてくださると語っています。たとえ、自分の計画通りに進んでいなくても神様はその人に最善のものをくださいます。
これはまるで優しい母親が子どもの寝顔を見ながらプレゼントを枕元に置くような、神さまのやさしさの詩的な表現です。
安息日とか、安息年とは、神様の愛と恵みと保護の中で生きることです。
あれしなきゃこれしなきゃと慌てなくても、まずは神様がちょうどよく雨を降らせ作物を豊かに与えてくださいます。
何より平和、平安を与えてくれます。あれこれ考えたりビクビクしないで安心して寝ることができるし、獣が襲ってくることもないし、周辺諸国が攻撃してくることもありません。
収穫も多くて、まだ食べ終わらないうちに新しい収穫があたえられます。それが10節です。
今風に言うなら、貯金の残高がいっぱいあるのに、さらに収入があって預金残高が増えていくようなそういうことです。しかも何の心配もなく安心して生活することができます。
そのためにすべきこと、心がけることはただ一つ。神様の安息の中、神様の愛と保護の中を歩みなさい、頼りなさいと言うことです。
※制作会社時代の体験
僕はまぁ今で言うブラック企業に勤めていて、夜12時に帰ったら、今日は早いなあ、って感じでした。普通は2時とか3時に終わって、そして次の日午前10時には別のお客さんと打ち合わせが始まると言う異常な仕事をしていました。
日曜日は一応礼拝に出席しましたが、ただ、座って寝ているだけでした。
起きたら、祝祷の時にみんなが立ち上がるから、なんとなく起きて、1時からまた会社があるので、終わったらすぐに会社に行きました。会社がそう言う会社というのもあったけど、僕自身も、いつも間に合わない、急がないとすぐ始めないと、すぐ次に行かないと、ずっと思ってました。寝てても次の仕事のこと考えています。
もう限界だ、体も心ももう無理だ、と思ってもうやめる覚悟で会社と相談しました。
やめようと思っていたんだけど、やめられたら困る、とのことで、人を増やして、僕は夜は必ず20時には帰る、日曜は完全に休む、と約束してもらいました。
その時から神様は本当によくしてくださいました。まさに聖書にある通りに豊かな産物が、天から注がれるようでした。同僚はみんな寝不足でイラついているのに僕だけは睡眠がばっちりです。
誰よりも会社の中で1番勤務時間が短いのに、誰よりも会社で売り上げを取る人になりました。
夜8時なんて、今までの生活から見たら、まだ昼みたいなものです。夜の祈り会にも喜んで参加し、夜の青年の学びにも喜んで参加するようになりました。礼拝も寝ないようになりました。神様の恵みです。
聖書を読むなんてほとんどできなかったのに、聖書を読むようになりました。
神様がよくしてくださって、仕事も祝福してくださって、神様を優先して、神様の教えを知りたい、と思うようになってから、わかりやすく社会的にも収入面でもめぐみが祝福があるんだ、って強烈に体験した20代でした。給料もすごく良くなりました。それで、
ますます神様に従いたいと思うようになったんです。
私たちがお仕えするのは、人ではなくて神様です。神様との安心感のある関係によって初めて私たちは利用者さんとかお客さんにお仕えしていくことができます。神様との関係が優先です。
今日の箇所ははっきりと言っていると思います
神様は警告してくださいます。実は警告の方が長いです。
この神様の祝福と安息の中から出て行くなら、神様でなく、自分の力で、何かを偶像として生きるなら、祝福を失うし、懲らしめもある、と書かれています。
●警告と懲らしめ
神様以外で満たされようと考えてしまうのが弱い人間です。
神様よりも自分のための方法、自分の工夫、自分の力により頼むなら、神様の教えを嫌って従わないななら、あなた方の努力は無駄になる、と警告されています。これは、愛する子供が気が付くための愛の懲らしめです。病気にもなり、心がすり減っていき、種をまいても無駄になり的に怯え、いつも不安にさいなまれるそう書いてあります。14節からです。
懲らしめレベル1
"しかし、もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、これらすべての命令を行わないなら、
また、わたしの掟を拒み、あなたがた自身がわたしの定めを嫌って退け、わたしのすべての命令を行わず、わたしの契約を破るなら、
わたしもあなたがたに次のことを行う。わたしはあなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病で目を衰えさせ、心をすり減らさせる。あなたがたは種を蒔いても無駄である。あなたがたの敵がそれを食べる。"
レビ記 26章14~16節
もし収穫があったとしても、それは敵に奪われてしまいます。「あなたがたの敵がそれを食べる。」みなさんが頑張って仕事しても、誰かに全部持っていかれ、心が病み、体も病んで疲れきっていくイメージです。
16節には、「あなた方の上に恐怖をのぞませる」とあります。いつも、敵が追ってくるんじゃないか、ビクビクしているイメージです。心も体もすり減っていきます。
これは神様からの警告です。不安感があり、恐怖が自分を支配し行くなら、心がすり減って疲れを感じるなら、何をしても無駄に感じる時、これは神様に戻りなさい。ただ、主の前に静まりなさい、と言う警告です。
それでも高ぶりをやめないなら、さらにあなたを苦しめるとおっしゃいます
懲らしめレベル2
悔い改めない場合の第二段階の訓練、もっと厳しい懲らしめがあると言うですね。
"もし、これらのことが起こっても、あなたがたがなおもわたしに聞かないなら、わたしはさらに、あなたがたの罪に対して七倍重く懲らしめる。
わたしは、自分の力を頼むあなたがたの思い上がりを打ち砕き、あなたがたの天を鉄のように、あなたがたの地を青銅のようにする。
あなたがたの力は無駄に費やされる。あなたがたの地は産物を出さず、地の木々も実を結ばない。"
レビ記 26章18~20節
神様は自然界をコントロールし、天は雨を降らせない鉄のようにかたくなり、地面は青銅のようにカチカチにして、もう畑ではなくする、と言います。何も生み出しません。
"あなたがたの力は無駄に費やされる。あなたがたの地は産物を出さず、地の木々も実を結ばない。"
レビ記 26章20節
これは人の思い上がりを砕くための神様の訓練、懲らしめです。あらかじめ、それが起こる前から言ってくれてます。それでも悔い改めない場合、第3段階ー6段階まで懲らしめが続きます。
●悔い改めと回復
彼らはひどい痛みを通ることで、どん底を通ることで初めてきがつきます。自分がたかぶり、神様を裏切っていたことに気が付き告白し祈ります。どん底を通ることで初めて高慢が砕かれます。
この苦しみや不安や貧しさは神様の教育だったと気が付きます。
"彼らは、自分たちの咎と先祖の咎を、つまり、わたしの信頼を裏切って、わたしに逆らって歩んだことを告白するが、
このわたしが彼らに逆らって歩み、彼らを敵の国へ送り込むのである。もしそのとき、彼らの無割礼の心がへりくだるなら、そのとき自分たちの咎の償いをすることになる。"
レビ記 26章40~41節
回復のスタートは試練によって苦しみによって自分の罪を知ることです。それを認めて告白することです。その時にもう一度神様はあなたを祝福すると言う神様の誓い、契約を思い起こし回復させてくださいます。
質問です。
最近、神様に懲らしめられ、警告を受けていることはありますか?
もし今日、神様が皆さんから平安を失わせ懲らしめててる状況なら、なんかしら原因があるはずです。
もちろん、神様にお仕えする時には必ず苦しみがあるけど、でも、教育のため、警告のための懲らしめもあります。契約は失ってないし、神様の祝福の誓いも無くなっていません。
でも、警告はあります。
もし、皆さんが前には感じてた喜びを今は失ってるってことがあるなら、それにもちゃんとした理由があると思います。
今どんな罪が痛みの原因になってると思いますか?
罪によって祝福や喜びを失ってることがありますか?
悔い改めは一生をかけて成長していくもので、終わることはありません罪のない人はいないです。
雑草のように出てきます。一度ちゃんと悔い改めて、告白して、祈ってやめても、また小さな罪の芽が出てきます。イエス様は祈りを教えてくれました。
私たちの罪を赦してください。負い目を赦してください。そう祈りなさい、と言われました。
僕らはずれやすいです。神様は警告してくださいます。懲らしめを通して、苦しみを通して、もう一度罪を認め、たかぶりを認め、神様の祝福に帰りましょう。
僕らの力で生きているのではないです。ただ、最初から用意されている神様の愛と恵です。安息しましょう。委ねましょう。
僕らの頑張りから出たものは何もありません。ただ、感謝しましょう。戻りましょう。
偶像を捨てて、罪で満たされようとしないで、神様に戻ることです。最初から祝福は約束され知恵ます。
スマホも、仕事も、SNS一度脇に置いて、自分の存在が「神様の愛に包まれてる」ってことだけを感じて、ああ、神様ありがとう。神様だけで十分です、っていう時間をまず優先してとりわけ、過ごすことです。これが安息です。自分じゃなく、神様が働いてくださる安心感を知ることです。
「人生の主役は自分じゃなくて神様なんだ」って、思い出すための“神様だけのための時間”です。この「神様だけを体験する時間」を日常の中でもちょっとずつ作り、増やしていけたら、いつか必ず人生全部が安息日になります。
目標は毎日が神様の日、仕事をしていても安息日、神様と一緒にいる安心感のある仕事の日になることです。主と顔を合わせる日それは完全な日となります。
でも、毎日神様の安心感の中で生きること、これが地上での僕らの成長です。
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