僕らの生活の全ての出来事において神様に目を向け、神様を求めるように聖書は言います。
(1)
主に雨を求めよ、後の雨の時に。主は稲光を造り、大雨を人々に、野の草をすべての人に下さる。
当たり前に雨が降って作物が実る、ということではありません。日常の全てで神様を求める人に神様は素晴らしいことをしてくださいます。
(3)
万軍の主は、ご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場の威厳ある馬とされる。
馬を育てるのは大変な手間がかかるそうです。神様は自分の乗る馬にするように、大変な手間をかけて愛し、世話をし、教え、美しく育ててくれるという表現です。そしてその馬は強くなっていくという比喩です。そのように、神様を求める人に栄光と力を与えてくださいます。
(5)
彼らは勇士のようになり、戦場で道端の泥を蹴散らして戦う。主が彼らとともにおられるからだ。彼らは馬に乗る者どもを辱める。
神様が彼らを愛し、世話をし共にいるということが力の源です「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8.31)と聖書は言います。
(6)
「わたしはユダの家を力づけ、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを連れ戻す。わたしが彼らをあわれむからだ。彼らは、わたしに捨てられなかった者のようになる。わたしが彼らの神、主であり、彼らに答えるからだ。」
ユダもヨセフの家も不幸でした。彼らは神様を裏切ったことによって怒りを受け、呪いを受けて苦しみました。でも、それはまるでなかったことのように回復します。6節の最後に「私に捨てられなかったもののようになる」と書いてあります。
まるで神様との仲違いが無かったかのように、苦しめられることが無かったかのように、捨てられたことが一回も無かったように回復します。過去の傷は残りません。
(7)
エフライムは勇士のようになり、その心はぶどう酒に酔ったように喜ぶ。彼らの子らは見て喜び、その心は主にあって大いに楽しむ。
回復は凄くて、その心はぶどう酒に酔ったように喜んでいます。神様によって与えられる喜びは酒の喜びよりももっと大きなものです。酒を飲んで楽しくなるなら、それ以上に御霊が与えられることは安心と喜び楽しみが与えられることです。大人たちが酒によってでなく神様によって喜び歌っているのを見て、「子らは見て喜び、その心は主にあって大いに楽しむ。」とあります。最高の教育は大人が神様によって喜んでいることです。
(12)
わたしは主にあって彼らを力づける。彼らは主の名によって歩き続ける。──主のことば。」
神様に求め、神様に信頼するということは、私たちがボーッとしてることではなくて、喜んで、安心感を持って与えられた賜物を最大限に用いて、自分の手で戦い、勝利していくということです
全てが神様から与えられる力です。
シンプルに、神様を求めましょう。日常の一つ一つに、大きいことも小さいことも神様を求めましょう。
神様は僕らを力と喜びに満たしてくださいます。ハレルヤ!
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