神様は僕らを愛し、赦し、受け入れてくださっています。神様に受け入れられただけでなく、僕らは「神に喜ばれるためにどのように歩むべきか」(1)と願う人に変えられます。クリスチャンはあれダメ、これダメ、という人ではありません。聖霊が与えられて「もっと神様に喜ばれたい!」と思う人たちです。
(1)
最後に兄弟たち。主イエスにあってお願いし、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを私たちから学び、現にそう歩んでいるのですから、ますますそうしてください。
神様の願いは僕らが性的にもきよくなることです。聖霊を与えられた人は「きよくなりたい!」と思うようになります。なぜならそれが神様の願いだし、喜ばれることだからです。性欲は神様が与えてくださった喜び、聖なる良いものです。食事が喜びなのと同じです。性欲を自分の結婚相手以外に向けることは他人のものを盗むことです。神様の大事な宝物であるからだを汚し、罪のために使うことです。他人の食事を勝手に食べるのは他人の分を汚なくし踏みつけることです。だから結婚相手でない人と性交渉することは他人のものを汚し踏みつけ、自分のからだも汚し踏みつけています。いろんな人と性関係をもつ人はレストランで他人の食事を次々と食べ歩いている人のようです。
(3-6)
神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。あなたがたが淫らな行いを避け、一人ひとりがわきまえて、自分のからだを聖なる尊いものとして保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、そのようなことで、兄弟を踏みつけたり欺いたりしないことです。
僕らのからだは神様のものになりました。そして僕らのからだに聖霊が住んでいます。聖書は「あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。」と言います。(1コリント6:15)性的な罪は特に厳しく警告されています。
(6-8)
私たちが前もってあなたがたに話し、厳しく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて罰を与える方だからです。神が私たちを召されたのは、汚れたことを行わせるためではなく、聖さにあずからせるためです。ですから、この警告を拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたにご自分の聖霊を与えてくださる神を拒むのです。
聖霊が与えられた人は「神様に喜ばれたい!」と思うようになります。あれダメ、これダメではなく、神様に喜ばれたくなります。だから「どこまでがオッケーか」と思わなくなります。「どこまでセーフか」と考える人は「どこまで神様に逆らってもいいか」と考える人です。聖書は「神に喜ばれるためにどのように歩むべきか」(1)と教えます。僕らの中に住んでおられる聖霊ご自身がそう願っています。ですから、この警告を拒む人は、聖霊を与えてくださる神を拒むのです。
今日も神様に喜ばれましょう。あらゆることで「神様に喜ばれたい」と願いましょう。いや、聖霊がすでにそう願っておられます。ハレルヤ!
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