イスに座る人はイスが壊れないと信じています。車の運転をする人はブレーキを信頼しています。どのくらい信頼しているかは、どのくらい信頼する行動をするかでわかります。同じように、神様を信頼する人は神様を信頼する行動に現れます。「神様を信じてる」言っても、実際に神様の教えに従おうとしないなら意味がありません。
(14-17)
私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、
あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。
同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。
行動につながらない信仰や祈りはまるで死んだものです。イエス様は「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。」とおっしゃいました。(マタイ 7:26 )ハドソンテーラーは「信仰の祈りは全力投球の行動を生み出す。」と言っています。
(1.26-27)
自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。
父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです。
アブラハムは神様の約束は必ず実現する、と信じて行動しました。神様はアブラハムの子孫が海辺の砂のように増えるとおっしゃり、アブラハムはそれを信じました。神様がアブラハムにひとり子イサクを殺して神様にささげなさい、と言われた時、たとえイサクが死んだとしても、神様は生き返らせることができること、そして神様は必ず約束どおり子孫を増やしてくださることを信じました。(ヘブル11:17-19)
(20-22)
ああ愚かな人よ。あなたは、行いのない信仰が無益なことを知りたいのですか。
私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義と認められたではありませんか。
あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました。
信じることは、神様に信頼して行動することです。信じて祈ることと一歩踏み出すことはセットです。
あなたにとって、信じるだけで行動にしてないことは何でしょう。信じて従い、行動に移しましょう。一歩踏み出しましょう。
(マタイ 7:21)
わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
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