2023年1月19日木曜日

レビ16章

 僕ら人間は神様が言われた方法でだけ、神様に近づくことができます。聖書によると人間は神様の聖さや栄光に近く時に「もうダメだ」と思うようです神様に近づくときに多くの人たちが震え上がっている様子が書かれています。汚れたままで神様に近くなら死んでしまいます。実際、アロンの2人の子は勝手に至聖所(神様とお会いする幕屋の一番奥の部屋)に入り死んでしまいました。


イスラエルでは年に一度、イスラエル人全員の罪を取り除く儀式が決められています。この日には人々を代表して大祭司だけが幕屋の一番奥の部屋(至聖所)まで入ります。神様はそのための手順を示してくださいました。これらの儀式は現代の僕らにイエス様によって神様に近く道を示しています。僕らの勝手な方法ならば、良さそうに見えても神様に受け入れられませんが、神様が教えてくださった方法なら完璧です今日の箇所はイエス様によって僕らが完璧に神様に受け入られられる方法が示されています。


(34節)

これは年に一度イスラエルの子らのために行われる、彼らのすべての罪を除く宥めである。


この教えの前に、アロンの子たちが勝手に神様に近づいて殺されてしまう事件がありました。(10章)だから、この章は「死ぬことのないため」と繰り返されています。


(1-2節)

アロンの二人の息子の死後、すなわち、彼らが主の前に近づいて死んだ後、主はモーセに告げられた。

主はモーセに言われた。「あなたの兄アロンに告げよ。垂れ幕の内側の聖所、すなわち箱の上の『宥めの蓋』の前に、時をわきまえずに入ることがないようにせよ。死ぬことのないようにするためである。


アロンは大祭司として、イスラエル人全員の罪を取り除く儀式をするのですが、でも、その前に自分のためにも、自分の家族のためにもささげものをしてきよめていただく必要がありました。大祭司も弱い人間です。まずは自分のきよめからです


6節)

アロンは、自分のための罪のきよめのささげ物である雄牛を献げ、自分と自分の家族のために宥めを行う。


僕らも家族や仲間のために祈ります。ですが、大事なのはまず「自分から」です。イエス様も「まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7.5)自分の罪をきよめていただいてから、次に香を焚き、煙を雲のようにして至聖所に入ります。それは「死なないため」です


(12-13節)

彼は主の前の祭壇から炭火を火皿いっぱいに、また、粉にした香り高い香を両手いっぱいに取り、垂れ幕の内側に持って入る。

その香を主の前の火にくべ、香から出る雲が、あかしの箱の上の『宥めの蓋』をおおうようにする。彼が死ぬことのないようにするためである。


神様のご栄光は人間には強すぎて直視できないようです。なので、香を焚いて煙らせることでなんとか至聖所の神様の栄光の前に出ることができるようです。香の煙を炊く理由は「彼が死ぬことのないようにするため」と書かれています。(13節)大祭司はもうもうと煙を炊いて、その中で至聖所に入って、罪のきよめのための血をふりかけ、神様の赦しときよめを願います。


(16-17節)

彼はイスラエルの子らの汚れと背き、すなわちそのすべての罪を除いて、聖所のための宥めを行う。彼らの汚れのただ中に、彼らとともにある会見の天幕にも、このようにする。

彼が宥めを行うために聖所に入って、再び出て来るまで、だれも会見の天幕の中にいてはならない。彼は自分と自分の家族、それにイスラエルの集会全体のために宥めを行う。


もう一つ大事なことは、大祭司は全ての人々の罪をやぎの頭に手を置いて告白し、その罪をやぎに移します。そして、そのやぎは荒野に追いやられ、死んでいきます。イスラエル人の全ての罪は遠く離され、彼らの罪は拭われます。


(21-22節)

アロンは生きている雄やぎの頭に両手を置き、それの上で、イスラエルの子らのすべての咎とすべての背き、すなわちすべての罪を告白する。これらをその雄やぎの頭の上に載せ、係りの者の手でこれを荒野に追いやる。

雄やぎは彼らのすべての咎を負って、不毛の地へ行く。その人は雄やぎを荒野に追いやる。


ヤギが罪を背負って遠く離れて言ったように、僕らの罪はイエス様によって遠く離され、もう思い出さない、と言ってくださっています。

これらの儀式は一年に一回行われる、全ての罪を取り除く儀式でした。でも、毎年繰り返さなければなりませんでした。これらはキリストの赦しを表しています。キリストは「ただ一度」で永遠のきよめを成し遂げてくださいました。


(ヘブル 9:11-12)

しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです


イエス様が十字架の上で死なれた時、エルサレム神殿の聖所と至聖所とを隔てていた垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。それは、イエス様によって、大胆に恐れなく神様に近づくことができるようになったことを現しています。



(ヘブル 10:19-20)

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのですイエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです


もはや大祭司による儀式は必要がなくなりました。

けれども、旧約聖書の儀式を知るほどに、僕らが赦されきよめられたことの大きさがわかります。そして神様に近くことがどんなにすごいことかもわかります。

僕らは神様に殺されてもおかしくない罪人でした。聖なる神様の前で死んでしまうような汚れたものでした。そんな僕らがイエス様によって受け入れられています。イエス様が僕らのためにしてくださったことは大きすぎます。僕らが聖なる神様に近づくことができるなんて凄すぎます。感謝しましょう。ハレルヤ!

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