僕ら人間は神様と交わるように作られています。神様を知らない人は安心や満足を求めていろんなことをしますが、聖書はそれを「空の空」と言います。「ああ、なんてむなしいんだろう」という意味です。これを書いたソロモン王はあらゆる知恵、名声、快楽、お金、権力、全てを手に入れた人でした。でも、神様との交わりがなければ、どんなに苦労しても満足は一時的で虚しいものです。
(1-3節)
エルサレムの王、ダビデの子、伝道者のことば。
空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。
どんなに人間が苦労したとしても、人生は終わり、忘れられ、次の世代が起こり自然界は何も変わらないから「ああ、むなしい」と彼は言います。
(4-7節)
一つの世代が去り、次の世代が来る。しかし、地はいつまでも変わらない。
日は昇り、日は沈む。そしてまた、元の昇るところへと急ぐ。
風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。
川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れる場所に、また帰って行く。
もし心躍らせる出来事があったとしても、それはひとときです。本当に僕らを満足させるものはこの世にはないし、どんなに話題になったり注目されても、時間が過ぎれば、その後の時代の人には何も思い出してもらえないものです。だからソロモンはむなしい、物憂い、と言います。「今がんばっていることが何になるのか…」という気持ちです。
(8-11節)
すべてのことは物憂く、人は語ることさえできない。目は見て満足することがなく、耳も聞いて満ち足りることがない。
昔あったものは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。
「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか前の時代にすでにあったものだ。
前にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、さらに後の時代の人々には記憶されないだろう。
(14)
私は、日の下で行われるすべてのわざを見たが、見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。
満腹しても次の日には空腹になるように、水を飲んでもまた喉が乾くように、この世の満足は一時のものです。ところがイエス様との交わりは、なくならない喜びと満足です。イエス様はおっしゃいました。
(ヨハネ4.14)
わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。
ソロモンは知恵を知識を増せば満足を得られると思いました。が、それも違ったようです。
(16-18節)
私は自分の心にこう言った。「今や、私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」私は、知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうと心に決めた。それもまた、風を追うようなものであることを知った。
実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ちも増す。
ソロモンは何よりも天の喜びと満足を切望していました。この天の神様との交わりを知ってしまった人は、地上のことは全て色あせてむなしく見えます。神様を知らない人は地上のことだけでなんとかしようとします。聖書は言います。「あなたがたは、 地上のものを思わず、 天にあるものを思いなさい。」(コロサイ3:2)
僕らが地上にあるもので一喜一憂せず、天にある喜びと満足の中を歩めますように。その喜びは尽きることがありません!
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