2023年1月23日月曜日

レビ1章

 教会は礼拝しますが、世界中でいろんなスタイルの礼拝があります。いろんなスタイルがあるのは聖書に「日曜の礼拝はこうしなさい」と書いていないからです聖書の中で礼拝手順が書かれているのはレビ記だけですそこには動物を殺して神様にささげる方法が書かれています。これは僕ら人間が聖なる神様に受け入れられるために、イエス様が血を流され、犠牲となってくださったことを僕らに伝えています。レビ記は、今僕らがしている礼拝の原型を教えてくれます。


(1-5節)

主はモーセを呼び、会見の天幕から彼にこう告げられた。

「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたの中でだれかが主にささげ物を献げるときは、家畜の中から、牛か羊をそのささげ物として献げなければならない。そのささげ物が牛の全焼のささげ物である場合には、傷のない雄を献げなければならない。その人は自分が主の前に受け入れられるように、それを会見の天幕の入り口に連れて行き、

その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。その若い牛は主の前で屠り、祭司であるアロンの子らがその血を携えて行って、会見の天幕の入り口にある祭壇の側面にその血を振りかける。


神様が僕らに求めておられるのは「いのち」です。当時、礼拝する人は動物を自分で連れてきてその頭に手を置きました。手を置くことは「この動物と私は一つです」という意味ですそして自分のいのちを全部ささげるかのように、その動物のいのちをささげます。そして、それは煙になるまで焼き尽くします。


(6-9節)

また、全焼のささげ物はその皮を剝ぎ、各部に切り分ける。祭司であるアロンの子らは祭壇の上に火を置き、その火の上に薪を整える。祭司であるアロンの子らは、その切り分けた各部と、頭と脂肪を祭壇の火の上の薪の上に整える。内臓と足は水で洗う。祭司はこれらすべてを祭壇の上で焼いて煙にする。これは全焼のささげ物、主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。


自分がいのちをささげ尽くし、全てをささげ尽くすかのように手をおいた動物をささげた人のことを聖書は「彼は受け入れられる」と言います。また、これは全焼のささげ物、主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。」と言います。つまり、神様が喜んで受け入れてくださっているということです


今は動物を捧げることはしません。その理由はキリストが最後の、そして完全ないけにえとして十字架でご自分をささげて下さったかです


(ヘブル10.9-10)

後者(キリストの十字架)が立てられるために、前者(いけにえ礼拝)が廃止されるのです。イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです


(ヘブル10.14)

キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです


キリストを信じる人はまるで手を置いて自分自身がささげられるかのように、キリストにつなぎ合わされ、「キリストとともに葬られたのです。」と聖書は言います。(ローマ6.4)そして僕らは「神に喜ばれるささげ物となる」と聖書に書かれています。(ローマ15.16)


全焼のささげものは「私自身を神様にささげ尽くします」ということを現しています。これは、イエス様の献身であると同時に、それを信じる僕らの献身ですイエス様によって僕らは受け入れられています。感謝して、僕らの「いのち」を全部神様に喜ばれるささげものとしてささげましょう。人生を残さずささげることは、神様に喜ばれるささげものです今日も受け入れられています。「彼は受け入れられる」(5節)書かれています!


(ローマ12.1)

あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です

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