神様は「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」と今日も僕らに言っておられます。(ヘブル13.5)神様が見捨てず良いものを与えてくださることが信じられない人は、お金も力も減らないように心配します。神様への信頼度によって人間の安心度は変わります。「神様が与えてくださる」ことを信頼して表明すために、初子は神様にささげなさい、と聖書は教えています。収穫も家畜も1/10は捧げるように教えられています。それは神様が決して離れず、見捨てないことへの信頼の表れです。
(26節)
家畜の初子は主のものである。初子として生まれたのだから、だれもこれを聖別することはできない。牛であれ羊であれ、それは主のものである。
産物の収穫も全部神様のおかげであることを表すために、1/10はささげます。牛や羊が増えるなら、それも1/10を神様に捧げます。ところが、人間はズルくて、悪いものは神様に、良いものは自分にとっておきたいものです。神様が良くしてくれることを信頼できないからです。神様は「その良し悪しを見てはならない。また、それを取り替えてはならない。」とおっしゃいます。ズルい計算は必要ありません。
(30-33節)
地の十分の一は、地の産物であれ木の実であれ、すべて主のものである。それは主の聖なるものである。
しかし、もしも人がその十分の一の一部を買い戻したいのであれば、それにその五分の一を加える。
牛や羊の十分の一については、牧者の杖の下を通る十番目ごとのものが主の聖なるものとなる。
その良し悪しを見てはならない。また、それを取り替えてはならない。もしも、それを取り替えることがあれば、それも代わりのものも、ともに聖なるものとなる。それを買い戻すことはできない。」
神様は「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」と言っておられます。
現代に適用するなら、神様の愛を信じる人は惜しみなく献金をささげることができます。理由は神様が豊かに与えてくださることを信じるからです。
実際、感謝して神様にささげる人はたくさん与えられます。
(2コリント9:5-6)
献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
神様を試してはいけないけど、お金や捧げものだけは「ためしてみよ」と書かれています。祝福されるかどうかをです。
(マラキ 3:10-12)
十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。―万軍の主は仰せられる。―わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。--万軍の主は仰せられる。すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。
お金も時間も神様へのささげものです。労力も神様のために隣人を愛し忍耐することも神様へのささげものです。神様はもっと良いものを与えようとしておられます。喜んでささげましょう。感謝しましょう。ズルい計算はいりません。ささげることは神様への信頼の表れです。神様は必ず良いものを与えてくださいます。
(マタイ6:31-34)
何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。(…中略…)神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。
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