2023年1月23日月曜日

レビ7.1-21

 レビ記には動物がささげものとして殺されて焼かれるようにとの教えが多く、残酷な感じがします。今日の箇所も同じく動物を殺してささげるように、との教えですこれら全ての動物の苦しみ、残酷さ、死は本来僕ら人間が神様から受けなければならない裁き、怒り、です。それを具体的に見るようにと定められたものです当時の礼拝者は、目の前で苦しむ動物を見なければなりませんでした。それらが殺され、焼かれ神様に受け入れられることで、自分の罪が赦され、自分への裁きは終わり、自分も受け入れられたことを実感します。


(1-5節)

代償のささげ物についてのおしえは次のとおりである。このささげ物は最も聖なるものである。代償のささげ物は、全焼のささげ物を屠る場所で屠る。そして、その血を祭壇の側面に振りかける。その脂肪はすべて献げる。すなわち、あぶら尾と内臓をおおう脂肪、二つの腎臓と、それに付いている腰のあたりの脂肪、さらに腎臓とともに取り除いた、肝臓の上の小葉である。祭司はそれらを祭壇の上で、主への食物のささげ物として、焼いて煙にしなければならない。これは代償のささげ物である。


目の前で殺され、神様にささげられるいけにえは、イエス様の十字架の死をあらわしています。僕らでなく、イエス様が苦しみ、僕らの代わりに殺され、ささげられました。イエス様の犠牲のおかげで僕らは神様に受け入れられています。あの十字架の処刑を信じる僕らは一緒に裁きを受けて終了した、と見なされます。まるで十字架の処刑に僕らも連帯しているかのようです


(ローマ6.3-5)

キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです

もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです


イエス様が聖なるささげもの、代償のささげものとなってくださいました。


レビ記の時代、殺されたささげものの肉を祭司は食べました。食べることは、食べ物と自分が一体になることです


(6-7節)

祭司の家系に属する男子はみな、これを食べることができる。それは聖なる所で食べなければならない。これは最も聖なるものである。

罪のきよめのささげ物と代償のささげ物についてのおしえは一つである。代償のささげ物は、それを用いて宥めを行う祭司のものとなる。


食べることは食べ物との一体化です。同じように、イエス様が十字架で死に、ささげものとなってくださり、また、復活したイエス様は僕らと一緒にいてくださいます。それをわからせるためにイエス様は一緒にパンを食べなさい、一緒に杯を飲みなさい、とおっしゃいました。これは、僕らがイエス様とつながっていることを表すための食事です聖餐式、と呼ぶ教会が多いようです


(1コリント10.16-17)

私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです


レビ記の時代は祭司だけがささげられた肉を食べました。そして新約聖書によれば、クリスチャンは全員祭司です。そして、信じた人はみんなイエス様とつながっていることを思い出すために、一緒にイエス様が「これはわたしのからだですとおっしゃったパンを食べ、イエス様が「これはわたしの契約の血です」とおっしゃった杯を飲みます。イエス様が犠牲となってくださいました。同時に僕らもそれに連帯しイエス様のからだの一部とされています。イエス様が死んでくださり、復活してくださって今も生きています。そのイエス様に僕らは繋がっています。


レビ記の残酷な動物の犠牲はイエス様を表しています。そして、イエス様が最後の、そして完全なささげものとなってくださいました。僕らはイエス様に繋がって、イエス様のからだを食べ、イエス様の血を飲むかのように、イエス様と繋がっています。


ささげものを一緒に食べることは、神様に僕らが受け入れられていること、そして、ささげものと連帯していることを表します。今、僕らはイエス様によって神様に受け入れられています。僕ら自身がささげものの一部となっています。


(9-10節)

さらに、かまどで焼いた穀物のささげ物はすべて、また鍋や平鍋で作られたものはすべて、それを献げる祭司のものとなる。

しかし、油を混ぜたものや、乾いたままの穀物のささげ物はすべて、アロンの子ら全員のものとなり、等しく分けることとする。


今日も僕らの体はイエス様のもの、そしてイエス様も僕らのものです。神様に受け入れられています!

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