2023年12月16日土曜日

マラキ4.1-6 癒しと回復の始まり メッセージ

 癒しと回復の始まり マラキ4.1-6


クリスマスと言うのは、約2000年前にイエス様が地上にこられたと言うことです。イエス様のお誕生日ではなくて、世界を正しくさばく方、そして世界を治める王様が地上に降りてこられたということです。だから誕生日と言わないで降誕といいます。


そして、イエス様は十字架で死んで葬られ復活して、1度目のこの地上での役目を終えて、救いを完全に用意して天に上げられました。そしてもう一度この地上に来られます。もう一度きた時は今度は用意していた救いと、裁きを完全に終える時です。イエス様はもう一度来られます。その時に起こることが今日の箇所です。


二つの面があります。


①この世の裁き

ひとつは悲惨なものです。神の裁きが全世界に下される、ということです。


1,「見よ、その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すて高ぶる者、すべて悪を行う者は藁となる。迫り来るその日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の主は言われる──


②完全な救い

もうひとつは良いことで、喜びと癒しと自由です。


2,しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。


私たちは、イエス・キリストが来られることを期待するし喜びます。待ちます。

神様の民は救われます。癒され喜び跳ね回りますが、一方滅され永遠に火に投げ込まれる人たちもいます。両方あります。

マラキは旧約聖書の最後です。これは警告です。警告は愛です。いろんな標識がありますが、警告の標識は怪我をしないため、不幸が起こらないための愛の標識です。危険標識のサインはすべてそうです。


裁きがあり、それは恐ろしいことを警告するのは神様の愛の行為です。愛する御自分の民を守り、維持するための警告です。危険を知らせ、主は罪人と罪を滅ぼすために裁きがあることを知らせます。聖書の多くは裁きの部分について語っています。それは滅ぼすためでなく救うためです。


①この世の裁き


聖書を読むと、いろんな苦しみからの解放、救い、敵からの救い、というストーリがあります。一つの例です。

モーセとイスラエル人たちが奴隷とされていたエジプトから救われました。

彼らは喜びます。でも、神様の方法は、敵を滅ぼすという悲惨な面がありました。海が分かれて海の真ん中の道を通って救われました。でも、後ろを振り返ったら、海が戻って追いかけてきたエジプト人たちの無数の死体が海辺にあった、彼らはそれを見た、と書かれています。だから、救いは喜びでもあるけど、悪を行う人たちにとっては殺される日、悲惨な日でもあります。


イエス様が再臨された時もそれが起こります。


1,「見よ、その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は藁となる。迫り来るその日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の主は言われる──


・罪とは高ぶり。


どんな人が滅ぼされるか「すべて高ぶる者、すべて悪を行う者」です。並んで書いてあります。


最初に人間が悪魔に誘惑されたとき、悪魔は「あなた神のようになれる」と言いました。

その後、いろんな悪を人間はするようになりました。全部は高ぶりから出てます。嘘は相手を騙せると思って低く見ています。盗むことはお店の人を低く見ています。姦淫、性的な罪、結婚相手を侮辱しています。自分の伴侶も、相手の伴侶も低くいています。殺すことは人を人とも思わないこと。親を敬わないことも、裁き、見下すことです。全部が高ぶりから出ています。身近です。僕も低く見てしまう人がいます。すぐ気が付きます。低く見ていることに気がついたら、その人を人を愛し、尊敬する心が与えられるように祈りましょう。


神様に対しても同じ。神様を低く見るから礼拝せず、祈りもせず、賛美もせず、文句ばかり言います。礼拝しません。安息日は取り分けません。自分が高くて神様が低いと思っているからです。


・回復は神様を恐れ敬うこと


反対に、この高ぶりをやめて、神様に跪くときに全ては回復します。


2,しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。


神様を恐れひざまづくから隣人を大事にします。神様の前に自分を低くするから、伴侶を大事にします。子どもを大事にします。「6,彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。」とあります。

神を恐れる心が与えられる時、隣人を尊敬し大事にする心も与えられます。


性的な罪をしないのは、伴侶を大事にするからです。体を大事にするのは、神様の体だからです。

礼拝とは、平伏すことです。礼拝する、という言葉をヘブル語辞典で調べたら、平伏す、とか、ひざまづくという意味とありました。自分を低くすることです。だから安息日を取り分けます。神様の前に謙る時に、全ての癒しが始まります。

しかも、神様の前にひざまづくことは、喜びと自由を得ることです。


2,しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。


こんな支配者はイエス様以外にありません。僕らが主を恐れて低くなるほどに、自由と喜びと解放があります。喜び、歌い、踊ります。人間関係が回復します。体も健康になります。癒しとは、自分を低くして神様を恐れ敬うことです。


反対に高ぶる人は、滅ぼされます。


一瞬で灰のように消え去るのかと思ったら、他の箇所を読むとながく続く残酷な裁きであることがたくさん書かれています。

裁かれる人は「すべて高ぶる者、すべて悪を行う者」1節、です。彼らは藁となる、と書かれています。

この世で権力があった、お金があった、能力があった、と価値があると思ったことが何も役に立たない藁になります。

人々から賞賛を浴びることがそれが全く意味のない藁となります。自分が神様か王様のように振舞うことができたかもしれません。快適だったかもしれません。でも、その高ぶりが苦しみに変わる日がきます。


・高ぶりの具体例1

高ぶって滅ぼされる人はどんな人たちか、具体的にどんな時代だったのか1章から3章に書かれています。


・いらないものだけを神様に贈る祭司たち


この当時の神殿の祭司たちは高ぶり、神様を低く見ていました。でも、形ばかりの礼拝をしていました。

実際面倒くさいと思いながら儀式をしていました。だから礼拝とか捧げものも最低限だけでいいと思っていました。

価値のないもの、捨てるものを捧げるようになってしまいました。最低のものを神様にあげておく、という感じです。神様は指摘します。


8,

あなたがたは盲目の動物を献げるが、それは悪いことではないのか。足の萎えたものや病気のものを献げるのは、悪いことではないのか。さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたを受け入れるだろうか。あなたに好意を示すだろうか。──万軍の主は言われる──


病気の動物、足の萎えたものや盲目のものだけを神様に捧げていました。商品価値のないものです。家畜として売れもしない。誰にとってもいらないもの。廃棄するものを神殿に持ってきまいした。神様を低く見ているので、なるべく時間をかけないように、お金をかけないように、と言う時代です。


今風に言えば「暇になったら教会でも行きます。」と言う感じです。「お金が余ったら献金します。」という感じです。実際には余りません。暇になりません。神様より自分が上なので、自分の仕事優先。お金優先。自分の力で生きています。神様の前に低くなり捧げる人がいない時代でした。祭司たちでさえいらないものを形ばかりささげているだけでした。


もし、礼拝して最低限の献金をして私の願いが叶ったらラッキーです。神様は最低賃金で動いてくれるくれるお手伝いさんのようです。自分が主人、神様がしもべ。罪とは高ぶりです。


・高ぶりの具体例2

伴侶を裏切ること


高ぶることは、他人を人を軽んじ、愛さないことに繋がります。本当は、人は神様がお作りになった大事なものだけど、神様がわからなくなると、他人を平気で傷つけ、裏切るようになり、ます。

この時代はそうでした。2章では結婚相手を裏切り、他の女性を慕って離婚する姿が書かれています。


16,「妻を憎んで離婚するなら、──イスラエルの神、主は言われる──暴虐がその者の衣をおおう。──万軍の主は言われる。」あなたがたは自分の霊に注意せよ。裏切ってはならない。


結果として家庭は崩壊して、父は子どもを顧みず、子どもも父を敬わない時代だったことがわかります。結婚が壊れていることは、親子が壊れていくことです。これは私たちにとっても身近なことです。神様はそのように高ぶり、神様を恐れず自分の欲望に仕える人たちを滅ぼす、と言います。


※選ぶのは君しだい 

この警告を無視しするか、受け入れるかは選ぶのはあなたです。苦しむのは自分の選択です。

神様が警告して罪から離れるように言われているのに、救おうとしておられるのに、大丈夫、と思って罪を選ぶことは自分から永遠の滅び、永遠の苦しみを選ぶことです。


地獄に行けるのは自分だけです。地獄とか滅びは悪魔とその使いのために用意されています。本来人間のために用意されているものではありません。が、そしてそれに自分から入ることを自分で選ぶことができます


②完全な救い


神様の警告を恐れ、聞き、重んじ、従う人は、救われます。しかも、完全に、です。癒しと自由と喜びが約束されています。


2,しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。


・義の太陽

義の太陽は神様の正しさを示します。大事なのは、僕らの正しさではなく、イエス様の愛と義が僕らに照らされ、僕らが癒されていくことです。新約聖書は「神の義」と強調します。僕らは全員罪があり正しくないです。神様だけが完全に正しい方です。

そのイエス様の正しさが信じた僕らも同じように与えられます。僕らが正しいのではなくイエス様が正しい方です。イエス様を信じ、繋がる時に、義の太陽に照らされて、「いつもあなたは義だよ、無罪だよ、聖なる人だよ」という喜びの光に照らされ続けます。その日に完全な栄光の人に変えられます。


ローマ3:22

すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。


・バプテスマとは死と復活のイエス様と繋がること。


神様の終わりの日の裁きがきます。

そして、イエス様はその裁きを受けなくて済むように救いを用意するために来てくださいました。


イエス様は十字架で呪われた人となり、預言されていた裁きを受ける罪人の代表となって処刑されました。

これが、イエス様のへり下りであり、地上に降りてくださった目的です。


今日は陽捺の洗礼があります。

イエス様を信じる人は、このイエス様と繋がる人です。一緒に同じように神の怒りと裁きを受けて死んだとみなされます。

バプテスマとは、一体となるとか浸される、の意味です。


ローマ人への手紙6章3節から4節


3,それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

4,私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。


罪を犯す、石川はるなさんはキリストと一緒に死にました。

正確にいうと、神の怒りを受けて殺されたイエス様と1つに結び合わさった、ということです。これがバプテスト、浸すとか繋がる、という意味です。


6節

6,私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。


もう自由です。昔は罪が王様で悪魔が王様で言いなりになり苦しめられてきました。でも今はキリストが王様です。

キリストの霊は私たちを自由にします。


●今、始まっている将来の喜び


完全な癒しと喜びは、終わりの日、裁きの日に与えられますけど、今、僕らがイエス様を信じて変えられる時に、将来の天の祝福を地上の僕らにも見せてくれることがよくあります。


「その翼に癒やしがある。」将来、完全な癒しが用意されているけども、今からその癒しを体験することができます。

それは信仰によって、祈りによって受け取ることができます。


ヨハネ 15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。


とどまって、繋がってるかどうかが問題です。

テレビがつかない時に、どうせ電波はウチだけ来ないんだ、とは言いません。電波は来てます。テレビがちゃんと電波を受信してるかどうか、が問題です。繋がっているかどうかが大事。wi-fiも同じ。来てます。携帯がちゃんと受信してないです。


同じようにように、祈りがきかれないときに、どうせウチには神様が来てないんだ、とは言いません。イエス様は、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、」問題は、ちゃんと神様に繋がってるかどうか、ちゃんと神様のことばを聞いて信じてとどまっているが大事です。


ああしてください、こうしてください、よりも、ちゃんと神様のことばを聞いて、耳を澄ましてますか?が大事。聞くつもりがなくて、従うつもりがなく、自分が上で神様が下で、それでいて、ああしてくれない、こうしてくれない、というのは間違いです。、まず、ちゃんと言葉を聞くこと、神様の聖霊を受け取り、身を任せること、こちらが先です。神様と交わっていると、どんなに神様が僕らを愛し、素晴らしい癒しを与えようとしているかがわかります。

これがないと、自分の願いや欲望や問題点ばかりに注目しすぎてしまいます。


神様のことばを聞いたらその神様を信じることです。信じることは期待することだし、行動することです。

こどもはご飯食べたい、という時には、お母さんが与えてくれると期待しているし疑ってない時です。ウチの猫でさえ、疑ってないです。みーこに行ったら絶対くれると信じてます。そしてみーこに要求したら本当にエサをくれます。

猫でさえ、みーこを信じて行動しています。疑ってません。


だったら、それ以上に、僕らも祈る時には神様が癒してくださると期待して、信じて、疑わないで祈り求めるのが信仰です。心の目で癒された姿を想像して祈ります。「牛舎の子牛のように跳ね回る。」そのように神様がしてくださることを信じて想像して祈ります。


家族関係に問題があるとき、僕らは祈ります。「6,彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。」神様がそのように親子の関係を癒してくださると信じて祈ります。本当に親子が互いに喜んでいる姿を想像して祈ります。


夫婦に問題がある時には本当に相手を喜んでいる姿を想像して祈ります。これが信仰です。結婚関係を壊すあらゆる誘惑者に対して、壁を作り、拒否する、誘惑する人がこの夫婦の愛の関係に入り込むことができないようになる姿を想像して、信じて祈ります。神様が、将来の自由と喜びを約束してくださっているからです。もう始まっています。


病気の時には、イエス様が完全に癒してくださることを信じてイメージして祈ります。信じることと祈ることはセットです。


お金がないとkは全ての必要なお金が満たされるのを想像してください。イエス様がもう一度こられた時には何も不足はありません。でも、今からそれを体験することができます。それが三章です。想像すること祈ることと行動することはセットです。


3章

10,十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の主は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。

11,わたしはあなたがたのために、食い荒らすものを叱って、あなたがたの大地の実りを滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の主は言われる──

12,すべての国々は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。──万軍の主は言われる。


天の国では当たり前のことですけど、この地上にいながら、神様を恐れ、高ぶりを捨て、ひざまづいて信じて祈る時に、そして行動する子機に天の窓が開いて天国の喜びを経験させてもらえます。将来の完全な癒しと祝福は今から体験することができます。


子牛が喜んで跳ねるような喜び喜びを地上でも体験させてくださることは、もう始まっているということです。


・イメージの大切さ


僕らは何を見て、何を想像するかで、人生が変わります。罪と不幸をイメージしているか、それとも祝福の約束をイメージしているか。

試合に勝つ選手は、勝つことをイメージしています。上手な音楽家はいつも上手な演奏ができる自分をイメージしています。クリスチャンは勝手な無謀なイメージをしているだけでなく、確かな神様のことばによって信じてイメージしています。


悲惨なニュースばかりを見て、聞いて、読んで、どうせ不幸になるんだと信じているのか、聖書を読んで期待しているか、です。他人の欠点や自分の欠点を見つめ、探し落ち込んだりさばいたり怒ったりしているのか、それとも、義とされている、神様の子どもとされている、人がいくら自分を罵っても神様は僕を愛し喜んでくださっている、という自由を信じるのか、です。


義の太陽に照らされています。神様があなたは義とされた、無罪とされた、解放されたんだと言ってくださっています。


全ての問題の原因は罪です。罪とは高ぶりです。自分を高くし、神様を低く見ることです。そして他人を低く見ることです。


でも、その縛りは終わりました。やがて悪魔も罪も滅ぼされる日がます。

僕らはもう自由と喜びを手に入れています。まだまだ不自由だし罪と戦いますが、もうその勝利の約束を手に入れています。

イエス様と繋がり、新しい命に満たされることは重荷とはなりません。


天の癒しと喜びがもう始まっています。

神様を愛し、隣人を愛する新しいことが始まっています。


親を赦し、愛するように変えてくださいます。神様の前に膝まずき、高ぶりを捨てて、へり下りのイエス様と繋がりました。

これがバプテスマです。

もう、イエス様と繋がりました。イエス様と同じ姿に、世の終わりに完全に祝福と喜びに変えられます。

今からすでにスタートしています。


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