イザヤ29.13-21
牧師の仕事を長くやっていると神様体験も理解も増えてきます。それはありがたいことだけど、同時に危ないことでもあります。人知を遥かに超えた神様なのに、いつもはるか上をいく方なのに「神さまはこうだ」「あの時こうだった」と自分の経験や人間の伝統的な理解の中に押し込めたり、「あの先生がこう言っていた」「ナントカ神学ではこうだ」などなど、神様に本気で願い求めるよりも、自分たちの理解や伝統の中に答えを求めるようになりがちだからです。「神様はこうだ」と決めつけて言い表せないのが神様です。イエス様の時代、律法学者たちは御言葉を自分たちの理解や解釈の中に限定してしまっていました。彼らは神様を恐れひれ伏し敬う仕草はしてたけども、実は自分たちの理解や作法や伝統の中に安住し、礼拝や生活のカタチや解釈は凝り固まったものになってしまっていました。その姿をイエス様は憤って「偽善者たち!」と叱りつけておられます。その時に引用されたのが今日のイザヤ書の言葉です。
(イザヤ書 29章13節)
主は言われた。「それは、この民が口先でわたしに近づき、唇でわたしを敬いながら、その心がわたしから遠く離れているからだ。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことである。
イエス様にとって不快なのは口先だけの礼拝です。神様を求めるより人の教えを重視することです。イエス様はこれを引用してから続けて言われます。
(マルコの福音書 7章8~9節)
あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」
またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。
神学校で教えながら時々危うさを感じます。それは僕ら教師の責任でもあります。神学生たちが過去の著作や伝統的な神学の中から答えを見つけてきて、まるで模範解答を暗記している高校生と同じことをしているのだとしたら、イエス様の憤りに触れるのではないかと思います。人間の教えや知恵は滅ぼされると聖書はいいます。
(イザヤ書 29章14節)
それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び、不思議なこと、驚くべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」
もし「私はわかっている」と思う人がいるなら逆に崖っぷちです。聖書は警告しています。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(コリント人への手紙 第一 10章12節)「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。」(コリント人への手紙 第一 8章2節)
逆に、神様は耳の聞こえない人に理解を与え、目の見えない人に悟りを与えてくださるといいます。貧しい人に喜びを与えてくださいます。僕はわかっている、という人とは真逆の人たちにです。
(イザヤ書 29章18~19節)
その日、耳の聞こえない人が、書物のことばを聞き、目の見えない人の目が、暗黒と闇から物を見る。
柔和な者は主によってますます喜び、貧しい者はイスラエルの聖なる方によって楽しむ。
体験が増えることや理解が深まっていくことは恵みです。でもそれに安住するなら危険です。神様は僕らの経験や思いよりはるか上をいく方です。自分の理解や所属教会のスタイル=神様の解答ではありません。既成概念は一旦手放して、今日、新しく神様を求めましょう。自分の小さな経験や理解が偶像のようになっていくことがありませんように。
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